高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)
1967年11月 6日(月)
 曇

 京都:曇・最高21.2℃最低14.3℃。

 独習を全然やっていなかったので活動がいきづまってしまった。

 独習とは、一般に単独で学習することを意味する。ただし、ここでは高野悦子が民青系のグループに近かったこともあり、当時の共産党が自党の方針や政策などを個人で自習することを特に「独習」と呼んでいた用語法の影響を受けたとみられる(『独習の意義と文献について』「前衛1962年9月号」(日本共産党中央委員会、1962年)参考)

 土、日、月と三日間クラブに顔を出さなかった。

 当時は週休二日制ではないので、11月4日(土)は休日ではない。
部落研
 一方で11月3日(金・祝)に河原町通の書店に立ち寄っている。
サワヤ書房

 盲従して活動についていき、

 この「盲従」も、当時の共産党の用語法の影響とみられる(『撹乱者への断固とした回答─毛沢東一派の極左日和見主義集団とかれらに盲従する反党裏切り分子への党破壊活動を粉砕しよう』「赤旗1967年8月21日」(日本共産党中央委員会、1967年)参考)

1967年11月10日(金)
 きょういくのもんだいについて まとめあげなければなりません

 この日は、佐藤栄作首相の訪米に反対する民青系の集会に参加している。
☞1967年11月16日「十日の統一行動」
同和教育問題

 がくえんさいがちかづいていますから でも─
創立67周年記念学園祭

 立命館大学の創立67周年記念学園祭は1967年11月11日(土)から8日間の日程で、広小路キャンパス、衣笠キャンパス、京都市内の会館・ホールなどを会場に開かれた。
 テーマは「祖国の大地に深く根をはり未来は私たちの手で!─ふきすさぶ嵐の中、平和と民主主義、社会進歩と新しい学問・文化の創造を!青春のエネルギーに満ちあふれた学園の第一歩を力強くふみ出そう!」。7月に自治会である一部学友会の執行部が民青系に移り(政権交代)、テーマもその案に従っている。
 部落研は、11月11日から15日(水)まで広小路キャンパスの存心館1階16号教室で、「戦争への道と部落差別」をテーマに展示や講演・シンポジウムを行った。佐藤政権が軍国主義復活を目指している中で、地域活動や実態調査に基づく差別教育の実態を追究するとした。

 「学園祭というものの意義やあり方についても、今後再検討を要する点があり、学生諸君のあいだにもいろいろと考え方のちがいから対立した意見もあろうかと考える。しかし学園祭を全学的な催しとして行う以上、小異をすてて大同につくというおおらかな気持ちで、みんながこれを支持し協力しなければならぬと思う」
 「爽涼好適の秋、全学挙げての学園祭にその数日をたのしく有意義に過ごす。それは、諸君の未来に生きる青春を悔いのないものとするであろう」(末川博『学園祭の回顧とその意義』「立命館学園新聞昭和42年11月11日」(立命館大学新聞社、1967年))

 さわのこどもたちのことについてかくはずなのに

 「沢」は、農村調査で行った京都府綾部市にある地区の名称。
☞1968年4月15日「沢の孝恵ちゃんやおじさんたちのことを思い浮かべ」

1967年11月12日(日)
 曇

 京都:曇一時雨・最高17.2℃最低7.8℃。早朝に雨が降った。

 前夜祭でざわついた夕闇の学園で、生協の組織部の人が消費者大会のカンパをマイクで訴えていた。

 創立67周年記念学園祭の前夜祭は11月11日(土)午後6時30分から立命館大学広小路キャンパス近くの鴨川河川敷にある鴨川グランドで開かれた。ファイヤーストームが点火されたあと、特設ステージでサークルによる音楽や武道披露が演じられ、模擬店130店が並んだ。延べ1万人以上が集まり、午後9時ごろまでにぎわった。
 当時、学園祭で一番盛り上がるのは前夜祭のイベントとされ、年々盛んになった。関係者以外の多くの学生は、前夜祭が終わるといなくなって旅行などに行くことが多かったと言われる。
☞1967年11月18日「西山さんが、八時十分の汽車で消費者大会に行くと聞いて」

 あの話し方は全学連系の人だな、

 ここでいう全学連は民青系全学連を指す。

 存心館裏を通ってBOXに行きたいような気持だった。

存心館裏学園祭でのスナップ
 学園祭で部落研が出展していた存心館1階から部落研BOXがある学生会館には存心館の裏の通路で通じている。

 富田さんの住んでいるところから近い村だと言っていた。

 富田さんは当時、部落研に所属していた文学部史学科西洋史学専攻1年の女子学生。実家は現在の新潟市。

 スポーツ(バスケット、卓球etc)を思いきりやってみたい。

 高野悦子は高校時代にバスケット部に、中学時代に卓球部に所属していた。

 佐藤首相訪米、羽田付近ではなばなしく乱闘。三〇〇余人が検挙される。

 佐藤栄作首相は11月「12日午後4時4分、日航特別機で東京・羽田空港から米国へ出発したが、これを実力で阻止しようとする反代々木系三派、革マル派両全学連を中心とする学生ら約5,700人が、特別機の離陸する数時間前から同空港周辺に押しかけた。
 午後1時45分ごろから空港の約1キロ手前の京浜急行空港線大鳥居駅付近に阻止線を引いた約5,000人の警官隊とはげしく衝突、双方に多数の負傷者を出し、その後も各所で何度か衝突をくり返し、夜7時すぎようやく騒ぎは静まった。最初の衝突で、警視庁は約10分間に催涙ガス筒77発を使用、夕方までに凶器準備集合、公務執行妨害などの現行犯で学生ら計333人を検挙した」(『羽田デモまたも流血─双方で172人重軽傷』「朝日新聞1967年11月13日」(朝日新聞社、1967年))(第二次羽田事件)。

1967年11月15日(水)
 ショパンの夜想曲をまどろみながら聞いている時でも

☞二十歳の原点1969年2月1日「あの夜想曲の始めのメロデーがきこえてきたのだ」

 結局「民新」をとることにした。

民主青年新聞 民主青年新聞は、日本民主青年同盟(民青)中央委員会が発行する機関紙である。当時は毎週水曜日発行。
 1967年11月15日号の1面トップの記事は「「佐藤訪米をゆるすな」「小選挙区制粉砕」「自衛隊『適格者』名簿作成反対」「結婚できる賃金よこせ」「スポーツ施設をつくれ」など思いおもいの要求を書きこんだゼッケン、プラカード、旗をかかげたなかまたち…。会場は、人と旗の波でいっぱいだ。「小選挙区制粉砕、民青新聞をよもう」というそろいの赤い紙ぼうしをかぶった埼玉の代表。そろいのハチマキをキリリとしめた長野県からの若い参加者。
 安保破棄諸要求貫徹中央実行委員会がよびかけた「11・5中央大集会」は、東京・渋谷区代々木公園で、一都九県(東京、神奈川、静岡、長野、山梨、栃木、茨城、群馬、千葉、埼玉)から14万人(主催者発表)が参加してひらかれ、佐藤訪米反対、ベトナム人民支援をはじめ諸要求をたたかいぬく決意をかためた」(『統一の願いこめて総決起─11・5中央大集会』「民主青年新聞1967年11月15日」(日本民主青年同盟中央委員会、1967年))

 共産党系の機関紙は当時多く発行されていたが、大学生を主な読者層として念頭に置いていたのは、「民主青年新聞」、「祖国と学問のために」、「学生新聞」の3紙である。当時の状況は下表の通り。
名称 発行 購読料等
民主青年新聞 日本民主青年同盟中央委員会 週刊、一部18円・月ぎめ70円
祖国と学問のために 全学連中央執行委員会 旬刊、一部15円
学生新聞 日本共産党中央委員会 週刊、一部15円・月ぎめ50円
 このうち「民主青年新聞」は大学生に限らず、10代からの若者を広く対象としていた。

 また京都独自でも機関紙が以下の2紙あり、大学生も読者層としていた。
京都民報 京都民報社 週刊、一部10円・月ぎめ40円
京都青年 日本民主青年同盟京都府委員会 月2回、月ぎめ20円
 「赤旗」(現・「しんぶん赤旗」)の京都版が「京都民報」(現・「週刊しんぶん京都民報」)に、「民主青年新聞」の京都版が「京都青年」にそれぞれ相当していた。「京都青年」は1967年10月まで「解放旗」と称していた。

 教文センターに行くべきだったなあと思った。
京都教育文化センターの地図 京都教育文化センターは、京都市左京区春日上通鞠小路西入ルにある京都府教職員互助組合の施設。ホールなどがある。京都教育文化センターでは1967年11月13日(月)午後6時から「白鳥事件、村上国治再審と釈放を要求する京都集会」が開かれている。

1967年11月16日(木)
 今日から生協の展示が始まるので、

 立命館大学生活協同組合の学園祭への出展である。

 存心館前でばったり三浦さんと会う。

存心館前

 七日の全国消費者大会のカンパ以来、

 全国消費者大会は、全国消費者団体連合会(消団連)などが実行委員会を構成する消費者運動のイベントである。
 第6回全国消費者大会の全体集会は11月18日(土)に東京・渋谷区の渋谷公会堂で開かれた。

 十日の統一行動、

 11月10日(金)夕方、佐藤首相の訪米に抗議する民青系府学連の集会が立命館大学広小路キャンパスで開かれた。

高野悦子「二十歳の原点」案内