高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)
1967年 4月22日(土)②

大学1年で一緒・長沼さん「日記に命を懸けてたエッチャン」

 高野悦子は1967年に立命館大学文学部史学科日本史学専攻に入学した。
 大学1年の時に一緒だった日本史学専攻の同級生女性で『二十歳の原点序章』に登場する「長沼さん」と会った。

 高野悦子は『二十歳の原点序章』1967年4月22日(土)に以下の記述をしている。
 浦辺さん、桜井さん、西山さん、長沼さん、長田さん…それぞれの人がいろいろな環境に育ち考えをもち生きている。

 入学当初から名前が出てくる長沼さんは、高野悦子が大学1年の時に最も時間を共にした同級生である。当時の日々と間近で見た等身大の高野悦子の姿を中心にうかがった。


通学が一緒だったエッチャン

 「こういう取材でお話をするのは初めてなんです」。待ち合わせた駅前の店に現れた長沼さんはとても感心した様子だった。恐縮すると、長沼さんは「構わないんですよ」と言って率直に話を始められた。

 長沼:彼女のことは「エッチャン、エッチャン」って呼んでました。悦子だからエッチャンって。同級生ですしね、「高野さん」なんて言ったことないです。
 かわいらしい子でした。田舎から出て来たかわいい子というイメージでした。
 彼女は髪型は最初おさげ髪で来てたんです。長い髪で大学に来る時は後ろで二つにくくってました。着てるものも地味でした。本当に地味な、普通のブラウスとスカートという感じでした。
 地味だけどかわいいじゃないですか、だから男子学生から人気があったんです。

 エッチャンと知り合ったきっかけは、日本史専攻で同じ講義に出て、それだけじゃなくて私の下宿がたまたま彼女と同じ山科で通学経路も一緒だったんです。
 当時の山科は今と違って開けてなくて、田舎みたいな所でした。
三条方面の様子長沼さんと高野悦子
 京阪山科駅から京阪京津線に乗って三条で降りて、三条大橋を渡って、市電で大学まで通ってました。当時の市電は片道15円だったんですよ、定期券を買ってましたけど。実際に彼女と朝も帰りも一緒になってました。
当時の京津線ルート
 そして最初のころは新入生歓迎で天ヶ瀬ダム・萬福寺に〝遠足〟とか行ってましたでしょう。その中でしゃべったり、キャンパスで顔を合わせているうちに、それとなく仲よくなるってあるじゃないですか。

 1967年4月入学当時、京都市電は片道15円で、大学生の定期券は1か月400円・3か月1,080円だった。1968年1月16日から片道20円に、さらに1968年7月1日からは片道25円に再値上げされた。
青雲寮
長沼さんの下宿
京阪京津線(大学1年通学ルート)
天ヶ瀬ダム・萬福寺

 エッチャンは私との間であまりしゃべらなかったんです。
 私は元々埼玉の生まれで父親の転勤で当時は福岡から出てきて下宿していました。だから同じ福岡の人としゃべる時は博多弁でしたけど、それ以外あまり方言は使いませんでした。
 だけど彼女は方言がありました。そのためかもしれないですが、あまり雄弁に語る子じゃなかったんです。割に黙ってる子でした。
 それだけじゃなくて、彼女は現役で来てるし、田舎にいて〝もまれてない〟し、何かそういうものもあったみたいですが。

“すごく怖かった”大学生活のスタート

 長沼:大学に入った時に、エッチャンも私も一緒に感じたのは、すごく怖かったことなんです。
 私は高校が男女共学なものの前身が高等女学校で女の方が圧倒的に数が多くて、ずっと女子の中で過ごしてきていました。彼女も宇都宮女子高校だったでしょう。
 それが大学に入ったら、男ばっかりに感じました。入学式は学生服が多くて角刈りの人もいました。文学部でも英米文学専攻とか女の数が多くて、史学科でも東洋史とか西洋史はまだ女の子がいるんですが、日本史専攻は比較的少なかったと思うんです。
 一浪も結構多かったです。二浪とかして来た人もたくさんいて、現役の私から見たら、何か〝おっさん〟みたいでした。三浪や社会に出てきてからの人もいましたし。
 周りが怖いんですね。エッチャンもおそらくそういう感覚だったと思います。おびえてました。

新入生歓迎風景 それで何かいろんなものが来るでしょう。
 サークルの出店が並んでいる時に、最初に社交ダンスのクラブに勧誘されました。私は身長160センチで体重43キロとスリムだったんです。男の人がツカツカ来て、「あなたは背が高いし、どう?」って言われました。
 その男の人がちょっと怖くて、“わぁー”と思って「ダメ!ダメ!」って言って断りましたけど、もう最初のショックでした。そんな世界を知らない人間にいきなり来るでしょう、これが大学なんだと思いました。

 政治的なオルグも来ました。初めてですよ、高校まで政治的な部分はなかったですから。60年安保なんかもあって、高校までも政治的な関心はもってましたけど、大学に入って、あんなふうにガァーってやられて、恐れをなしたんですよ、私とエッチャンの二人とも。
 “自分は何て無知なんだろう”という…いろんなことに関してですね。勉強は、みんな一応いいところの高校から来てるから、それなりに歴史の勉強はして来てるんです。だけど現代の社会問題というのは経験もなく来てるでしょう。
 だから言われると、“ああそうなんだ、何て自分は無知なんだろう”と思いますよね。地方の女子高から来た彼女も、そうだったと思います。

☞1967年5月11日「いわゆるオルグ活動を始めた」

 高野悦子は1967年4月15日(土)に以下の記述をしている。
 しかし私は勉強が足りないと思った。問題意識がほとんどない。それには本を読まねばならない。

 立命の日本史は当時難しくて、学内で入試の偏差値が一番高かったんです。教授陣に北山茂夫さん、奈良本辰也さん、林屋辰三郎さんがいて、哲学では梅原猛もいたんで、それに憧れて行ってるわけです。
 問題意識を持ってもって一浪とかして来てる人たちは、そういうので入ってるのかもしれないんですけど、私は純粋に日本史の勉強をしたいなと思って来たからカルチャーショックがありました。
 だからエッチャンもショックでした。

 プロゼミ、日本史入門のゼミを1年の時にやってたんです。50人くらいのクラスで。まあ、それを目当ての一つにして行ってるわけですね。北山先生で、エッチャンも一緒でした。
 「それで何をするの」ってテーマを聞かれて…。北山先生に言われて一人ずつ発言しなければならない時に、やっぱり一浪とかして来てる人達はすごくて「どういう問題意識を持って何をするんだ」という…。そんなこと大学入っていきなり無理じゃないですか。でも、みんながちゃんと話すでしょう。
 その時私は何を言えばいいのかなと思って、とりあえず高校の時に習って関心もあった自由民権運動について「上からの運動だったんでは…」って意見を言ってみたら、「秩父事件とか下から来てるのを知らないんですか!」とか厳しく言われてしまい、結局しどろもどろになって、ひんしゅくを買ってしまいました(笑)

 〝歴史をなぜ学びに来たか〟ということを教授は教えたかったんですね。でも最初の授業がそれで“わぁー”って思いましたね、何てこと言ってしまったんだという(笑)。自分たちがここまで何を勉強してきたんだろうかというショックもありました。問題意識もなかったですし、ただ別にどこを勉強したいということもなかったですから。厳しかったですよ。
 エッチャンが何をしたいって言ったかは覚えてないんですけど、同じ授業だったから彼女も当然そうだったと思います。

☞1967年5月24日「今日のプロゼミ」

エッチャンに焦点を当ててた浦辺君のオルグ
 高野悦子は1967年5月10日(水)に以下の記述をしている。
 また自治会委員長立候補者をたてる際、一回生の人達は渡辺さんをおそうとしたのに、上級回生は浦辺さんときめつけていたことに対する失望をかんじたと長沼さんがいっていた。
 長沼さんと並んで名前が出てくる同級生の浦辺さん(男性)は、この年の自治会選挙で日本史学専攻から民青系として代議員に選ばれている。
 翌日の1967年5月11日(木)にはこう書いている。
 長沼さん、浦辺さん、桜井さん、松田さん、北垣さん達のグループはそれぞれ民青の会員として活躍している。いわゆるオルグ活動を始めた。ちょっと奇妙に思ったが、私も勢力地図(イヤなヒビキをかんじる)の一端にのせられオルグの目的人となっているのかな。

 長沼:入った当時、民青だとかそんなの知らなかったんですよ。そうなのかなと思ってたくらいでしたから。
 それが浦辺君。現役入学の私やエッチャンより1つ年上なんですが、大学に来た時にはすでに共産党の活動をしてた人でした。最初にエッチャンと私に民青へのオルグを熱心にかけたんです。
 私は割と単純だから、おだてられて「そうか」と思って丸め込まれて(笑)、それからは周りは民青系の人ばっかりになったんですね。

民青

 1967年5月23日(火)の日記にも続いている。
 十九日の総会の帰り、浦辺さんにいわれた。「あなたは一歩とどまっている」と。

 浦辺君からみると私はすんなりいったんだけど、エッチャンは一生懸命考えて返事をしなかったんですね。
 彼女はなかなか踏み込めないし、ずっと考える子だったもんだから。
 でも実は彼はエッチャンに焦点を当ててオルグをしてたんです。ところが一緒にいた私の方が「はい」って言ってしまったんで(笑)。あとから 「何や」って言われました(笑)

 浦辺さんは京都府立植物園でのクラスコンパ後の1967年5月16日(火)の記述に独特の口調でも登場する。
 喫茶店「ロマン」で浦辺さんがウェイトレスを見て、「僕はああいう人が好きですよ、外から見れば普通のかわらない人のようにみえるけど、内面に入るといろいろ苦労している人。そういう苦労を苦労として表にあらわしていない人がいいですナー」

植物園での写真 本ホームページが入手した京都府立植物園での写真には、長沼さん、浦辺さんと高野悦子の3人で写っていた。

 浦辺君がおもしろいのわね、もう〝一を知って十を話す〟ような口達者な人で(笑)
 彼はお酒に酔うと、「代々木っー」って悪口を始めるんです。「代々木がどうのこうの」「代々木の何とか」って口調で批判とかするんですね。
 それで何て言うのかなと思ってたら、「俺たちも宗教と一緒やなー!代々木教や!」だって。
 あの言葉は忘れられません。私もそう思いましたから(笑)

 「代々木」とは日本共産党本部のこと。最寄り駅が国鉄(現・JR東日本)代々木駅のため「代々木」と呼ばれた。
 ただ新左翼各派が共産党の別称として当時呼んでいたのとは少し異なり、浦辺さんは共産党の中で〝本部の幹部〟という用法で使ったとみてよい。各地の共産党関係者が口にする場合、〝現場の活動(の苦労や悩み)を知らず、理論ばっかりで頭でっかちな党エリート〟というやゆした意味合いを含む場合が多い。サラリーマンが「本社の官僚連中どもは…」というのと同じイメージである。

 浦辺君は植物園のクラスコンパの時、エッチャンに「立教に受かってて、何で立命に来るんや」って言ったんです。
 栃木から東京の方がいいのに、なんでわざわざ京都まで来るのかなって私も思いました。入学したころには、彼女はそれほど日本史にこだわっているようにも見えなかったから、よけいにそうでした。
 彼は「何でや、立教の方がいいのになー」って、ずっと言ってました。

 浦辺さんは2012年に死去している。
京都府立植物園

日記に命を懸けてた
 高野悦子は1967年6月12日(月)に以下の記述をしている。
 今日は女子学生会の運営委員の選挙だ。

 女子学生会は立命館大学の学友会を構成する女子学生の全学的な組織である。民青系の影響が強かった。
 この選挙で女子学生会の運営委員の一人に長沼さんが選ばれる。

 長沼:私が言われて女子学生会の運営委員の選挙に立候補して、適当なことをしゃべって、運営委員になったんです。訳もわからないのに、お調子者ですぐ乗ってしまって(笑)
 エッチャンも応援してくれました。票読みとか一緒にして。
 周囲は彼女をそういう役職にしたかったようだけど、しないんです。それを私が知らないで出てしまって(笑)。彼女はそこが賢いというか、一歩踏み出す前に考えてしまい、逆に私はあまり考えずに何でもやってしまうんです。
 そういうところで、彼女は性格的にあまり自分から先頭になって何かするということはしないんだなって思いましたし、どこかで人に対して壁を作ってるようにも感じました。

 二人の下宿のアパートは近くでした。しょっちゅう行き来してました。時々、うちにエッチャンが泊まりに来たり、私が彼女の部屋に泊まりに行ったりしました。
 彼女は青雲寮という女子学生向けアパートの2階で、京阪京津線の電車からも見えました。
青雲寮と長沼さんの下宿の関係青雲寮跡
 部屋は京間の四畳半で畳敷きでした。中は殺風景で本当にモノが少なかったです。
 彼女はそういうシンプルな生活に憧れてるのかなと思ってたら、「女子高で下宿してた」「あんまりモノへの物質欲みたいなのがない」という話をしたことがありました。

 その泊まりに行った時に初めて、彼女が日記を付けてるということがわかったんです。
 一生懸命に日記を書いてるんです。
 だから「あれ、日記付けてるの?」って聞いたら「ずっと日記を付けてるの」って言うんです。私が部屋にいる時でも、彼女はずっと書いていました。人がいようと関係なく書いていました。
 日記を書くことに命を懸けてたみたいでした。
 書いてるのを見た時は、日記に箇条書きをしてました。こっちとしては“どんなことを書くのかな”と思ったんですけど、後に本が出て初めて“彼女はそういう思いを持ってたんだな”と知りました。

グループデートだった大徳寺見学
 高野悦子は1967年6月15日(木)に以下の記述をしている。
 きのう長沼さんと山川さんと酒井さんとの四人で大徳寺へ行く。

 長沼:1年生の時に、エッチャンと私、山川君と酒井君の4人で大徳寺に行ったことがありました。『二十歳の原点序章』にも載ってるでしょう。
 その時のことは覚えてます。平日でしたが、山科からエッチャンと一緒に行ったと思います。

大徳寺

大徳寺境内 これ実は酒井君とデートしたかったんで、私が誘ったんです。私が大学に入って一番最初に“いいなぁ”って思った人が同級生の酒井君でした。
 その時に一人じゃダメだからと思って、エッチャンを連れて行ったんです。そしたら酒井君も自分一人がいやだったから同級生の山川君を連れて来ました。それで4人でグループデートになったわけです。

 酒井君は一浪して来てましたが、実家があまり裕福じゃなくて、結構苦学生だったんです。生協の55円の定食が食べられなくて、「お金がない。昼は15円の牛乳しか飲めない」って言ってました。その印象があったし、なんか影を引きずってる感じの人で、私はそういう人に憧れました。

 酒井君が好きだった私は、何とか自分の思いを伝えたいと思いました。
 それで倉田百三の『愛と認識との出発』という本に手紙をはさんで入れて彼に渡しました。この本をすごく読んでて、良かったもんですから。
 そうしたら、彼から返って来た本に「高野悦子さんの方が好きです」って書かれたメッセージがありました。
 すごいショックでした。生まれて初めてフラれたんですもの。つらかったです(笑)

 『愛と認識との出発(しゅっぱつ)』は倉田百三(1891-1943)の評論集。友情や恋愛、信仰など若者の抱える問題について自分の体験を交えて書いた文章からなる。1921年に刊行されるとベストセラーとなり、旧制第一高等学校(現・東京大学)の学生が最も愛読した書物になった。

 彼はよく勉強してました。最初から「ぼくはマスコミで働きたい」って言ってて、文章も上手でした。私は勉強をしないで民青の活動で何のあれもなかったですけど(笑)
 酒井君と山川君ともう一人の3人が仲が良くて、この3人は教授に呼ばれて勉強会に参加してました。わが方のグループ(民青)の側はだれも声がかかりませんでした(笑)。勉強できない、それどころじゃないということで(笑)
 彼に民青系のグループに入ってもらえないかなあと思いましたけど、彼はずっと距離を置いてました。彼はずっと〝ノンポリ〟で絶対に足を踏み入れませんでした。

☞1968年12月18日「その後、酒井君、加賀君らとこの問題を話す」

 でもね、酒井君から「高野さんの方が好き」って来て、「あ、なるほど」とも思ったんですよ。私も何となくそれを感じてたから、エッチャンを連れていったんですね。エッチャンが一緒に行くって言ったから彼も来たのかなとも思ったんです。
 エッチャンもやっぱり酒井君を好きだったところはあったみたいです。でも彼女がモテすぎたんで、彼は引いちゃったんじゃないかと思います。
 あと、一緒に行った山川君は坊主頭だったんで大徳寺の住職に「いいな、いいな」って気に入ってもらってたようです。

 高野悦子ほどではないが、長沼さんへも好感をもっていた男子学生が複数いた。
 酒井さんは40歳代前半の若さで死去している。
☞二十歳の原点1969年2月6日「酒井君?」

食べないエッチャン
 高野悦子は1967年9月12日(火)に以下の記述をしている。
 その後長沼さんの下宿へ行って、同じ一回生の人達と話をしたりした。話題は主に映画だったが、私は何もわからずにただただうなずいているだけだった。

 長沼:私は福岡で高校1年の時に姉と一緒に1年間、3本立て4本立てで100本くらい映画を見ました。本当によく映画館に通ってました。フランスやイタリアの旧作のリバイバル映画を見て、映画日記のようなものを作ってました。パンフレットや食べたポップコーンの袋を貼ったり、見た感想とか書いたり、一人前に批評とかしたりして。
 高校時代に貯めた知識があるんで、そういう話をするわけです。だからエッチャンは付いていけなかったんでしょう。
青春の墓標 京都に行ってからは映画を見る状況になかったです。東映のヤクザ映画全盛期で興味なかったし、学生運動で忙しいから文化的なモノには顔を出さないという雰囲気もあって、もう行けませんでした。

 本の話もしましたが、エッチャンは乗ってこなくて、ほとんどリアクションがないんです。
 ただ私も樺美智子で安保闘争を知って、そのあと奥浩平の『青春の墓標』を読んで、すごい感銘を受けたんですよ。それは彼女も当時「読んだ」って言ってました。それで〝やっぱり青春時代の学生運動に挫折して…〟なんて話をしたことはありました。

青春の墓標

 私の山科の下宿も四畳半でした。
 親元から離れたかったから、うれしかったです。当時、実家から学費のほかに月2万円送ってもらってました。お金がないわけでもないし、自分で好きなことを…。それが母親が電話はかけてくるし、毎日手紙を書いてくるし、本当にうっとうしかったです(笑)
長沼さんの下宿跡 親はわざわざ福岡から冷蔵庫を送ってきました。夏の京都があんまり暑いもので、冷蔵庫に肌着を入れてから銭湯に行って、帰ったら冷えた肌着に着替えて扇風機を付けたら、「涼しいーッ!」(笑)。そういう生活をしてましたの。
 アップライトのピアノまでありました。実はいいところのお嬢様だもの、悪いですけど(笑)。教師になろうと思って中学生の時にピアノを習いました。
 エッチャンもピアノが弾けました。だけど彼女は歌わないでしょう、私も音痴だから歌うなって言われてたんで、だから一緒にピアノを弾いたりしたことはなかったです。

長沼さんの下宿

 エッチャンはあまりモノを食べないんです。見てても食べない。一緒に食べに行っても、彼女はうつむきながら食べます。下を向いて食べて、顔を上げておいしいとか言わないんです。あまりうれしい顔を見たことがありません。
 何が一番好きって聞いても言わないし、食べることにあまり興味がなかったように見えました。食事の時に、ポツリと「西那須野は田舎やったし」と言ったことがあったんで、最初は田舎で育ったからかなって思いました。
 私はものすごく料理が好きだったから、学生時代に料理本を買って、アパートの共同の調理スペースにあったコイン式のガスコンロで作ったりして、弁当も作って持って行ったりしたこともありました。すしおけとかも全部持って行ってましたんで(笑)、ちらしずしとか巻きずしとかも作りました。
 それでエッチャンがうちの部屋に来たらいろいろ食べさせるでしょう、そこでも下向いて食べてるんですけど。でも彼女の所に行って一回も食べさせてもらったことがないんです。彼女はそういうのに興味がなくて作らなかったようなんです。

☞1968年1月31日「今までは単に胃の中にものをほうり込んでいたにすぎなかった」

幼さの残る文学少女

 長沼:エッチャンはあまり多く話さないんです。質問とかしても、なかなか返ってきません。
 自分の中で答えを見つけるのか、人間関係の中でどういうふうに答えたらいいのか、常に考えてました。だから止まってる時間が多かったです。 それでポツっと話すんです。

 そんな彼女がずっと言っていたのが「私、未熟だから」という言葉でした。「私は何にも知らない」とか「何も知らないで来た」とも言ってました。
 みんな未熟じゃないですか。私も何も知らないで来て、少ししゃべっただけでたたかれて恥をかいたけど次はがんばろうとしてるのに、どうして彼女はそこで止まって落ち込むのかなあって思いました。
 私も当時幼かったですが、彼女は話すことに何かちょっと幼さのある文学少女みたいでした。

クラスコンパの写真 一緒に飲み会に行く機会があっても、彼女はお酒を飲みませんでした。少なくとも1年生のころは飲んでなかったです。
 私は大学に行ってみんなが飲みだして、“飲まないのに同じ会費を払うのは損”と思って飲んだら、酒飲みだった父親の血を引いたのか飲めました(笑)。それで私は飲んでました。飲んだら少し騒ぐんです。
 でも彼女はそういう飲み会の場にいても騒がないで、片隅でじっとしている印象でした。

 1年生の時は集まりではエッチャンとほとんどずっと一緒にいました。でも、あんまりよくわかりませんでした。わかりにくそうな感じの子でした。
 彼女が何をしたいかがはっきりしなくて、気が付いたら部落研に入ってましたし。どうして部落研に入ったのかな、栃木県の出身でなんでそういう所に着目したのかなって。私は一緒ではありませんでしたが、部落研では地域の施設とかで動いて結構楽しくあっちこっち行ってたりはしてたようです。ただ会う機会はその分少なくなりました。

部落研

 付き合った私の口から言うのもなんですが、振り返ってみると、彼女はちょっと暗かったかなあ。明るかったという人もいますけど、私は明るいとは思いませんでした。
 いろんな行事とかで、あまり楽しい顔したところを見たことがなかったです。自分が明るいということもあると思いますけど(笑)

 エピソード・行事等についての長沼さんの説明は多くに渡るため、本ホームページの『二十歳の原点序章』、『二十歳の原点』の各解説の項目で分けて紹介する。

引っ越しと不信感
 高野悦子は1968年3月21日(木)に以下の記述をしている。
 昨夜、長沼さんがきて一時間ほど話していった。そしてふと活動仲間との友情とは私にとってどのような意味をもっているのかなと思った。

 この直後の1968年4月2日(火)に山科の青雲寮から嵐山の原田方に引っ越している。
山科から嵐山への引越
 長沼:エッチャンは突然、下宿を変わってしまって…。 “あっ、私を信頼してないんだな”という思いが残りました。私としては心を開いて話していたつもりだったのに、彼女には受け入れてもらえないんだなって感じました。

 同級生の長沼さんが最後に登場するのは1968年5月13日(月)の記述である。
 牧野さん、長沼さん、西山さん、林さんらと山にきたら楽しいだろうなと思った。

 彼女はワンダーフォーゲルに入ってから、髪を一回バサッと切ってショートカットにしました。山に登るのに長い髪だと大変なのかなとも思いましたけど、同時に何か心境の変化があったのかなあって。
 山で撮ってきた写真なんかを見せてくれましたけど、どうして彼女がワンゲルに行ったのか、それが不思議でした。

ワンゲル部

 2年になって1年の時ほど学校で顔を見かけなくなっていました。もちろん学校が荒れ始めて勉強ができる状況でなくなると、みんな学校に行けないで、テストも全部レポート提出になりましたが。
 そのうち民青のグループの中で、エッチャンがおかしい、お酒を飲んでたとかタバコを吸ってたとかいううわさが出ました。1年生のころはほとんどお酒も飲まなかったのに…、です。

☞1968年6月11日「コンパで酔った」
☞1968年12月8日「二十九日のコンパで煙草を二本すって以来」

下宿の廊下 移った嵐山の下宿に3回訪ねました。6畳もない細長い部屋でした。
 そこへ私たちが何人かで民青の話をしに行きましたが、〝拒否〟されました。「一緒に問題に取り組んで…」とか言って引き戻そうと一生懸命に説得しましたけど、最後は殻に籠もったままでダメでした。
 彼女はずっと隅に座って暗い顔をして黙ったままでした。こちらが一方的にしゃべるだけで、そうしたら彼女はまた日記を書いてますし。よほど私たちがうっとうしいと感じてるのかなって思いました。
  “ああ、もうだめなんだなあ”って。これ以上話してもいけないと思って引きあげました。

原田方

 どうして嵐山に行ったのかなあって初めは不思議に思ってたんです。
 あとからですが、彼女は結局、民青に対して不信感を抱いたのかな、と。だから私に対してもだんだん距離を置くようになって、それで引っ越したんだなあって思って…。
 さみしかったですね。

自分探しをしていた彼女

 長沼:嵐山の下宿で会った時が最後でした。彼女がそのあと丸太町御前に引っ越したという話は全然知らなかったです。そのあと彼女は亡くなりました。
 話を聞いたのはそれからまもなくで、もう学生運動が少しおとなしくなった時でした。
 最後に会ってから自殺するまで時間的間隔があまりなかったことを知って、よけいにショックでした。亡くなった場所へ行きましたし、彼女がかつて暮していた山科の下宿を電車の窓からよく見つめたものでした。

天神踏切北側青雲寮京津線側
高野悦子の自殺

 立命館では日本史が全共闘の牙城でした。最初から学生運動の思想的バックボーンもあって一番先鋭的でしたし、教授たちも辞めました。最後まで激しく対立したんですね。最終的には民青が勝つ形ですが、その力関係は読めませんでした。
 私の場合、大学に入って学生運動とか知識がないと思って話を聞かないといけないってフラフラ付いていった先が民青でした(笑)

 高野悦子は長沼さんの話を1年生初めの1967年5月10日(水)に記述をしている。
 長沼さん達は早速活動し始めて、一つの問題にぶち当たった。「勉学を基礎にした諸活動」ということに対して上級回生と意見が違ったのだ。
 さらに1967年5月13日(土)には長沼さんの意見を引用して共感している。
 長沼さんがいっていたが、組織の中の機械の一部となってしまうことほど恐ろしいことはあるまい。

 いろいろよけいなことを言って怒られました。負けん気が強いんです。ニコニコしてあんまり前面には出さなかったですけど。
 紛争の時は後ろからチョロチョロ付いていったもので、そんなに危険な目にも合わなかったです。「日和見」と言われまして…(笑)。親類に刑事の人がいて大学に入学した時に「先頭に立ってやるな、後ろから付いて行け」と言われてました(笑)。「その方が政治的な運動が長持ちする」って。
 だけど私は民青で終わって、共産党には入らなかったです。組織や集団に帰属することが今一つ好きな人間ではなくって、どこかで自分は自分でありたいという思いがあったんです。

 学生運動の活動でエッチャンは常に一歩引いていたと思っています。自分は何をすべきかとか、いろいろ悩んでたんじゃないでしょうか。
 行動する前に、引いて冷やかに見てるんです。懐疑的なのは若さの特権だし、世の中を知らなくて大学に行ってカルチャーショックがあるけど、彼女はそこからもう一つ抜け出せないというんですか。それに、よく考えているんですけど、人づきあいはあまり上手じゃなかったです。
 彼女は悩んで、どこにも行けないで、ずっと自分探しをしていました。

 その間に男性関係があったでしょう。そのことが大きいです。かわいそうで、“なんでそんな”って。女の弱さなのかなあと思いました。
 人ってみんな周りの見方が全部違いますから、何が真実かはわかりません。
 ただエッチャンは人間が信じられなくなったんじゃないでしょうか。それしか考えられないんです。

 長沼さんが高野悦子と行った店は生協食堂、シアンクレール、荒神口食堂など数多い。このほかの喫茶店をうかがったところ、同級生の西山さんと入ったことがある店として「みゅーず」を挙げられた。
みゅーず

 みゅーずは、京都市中京区西木屋町通四条上ル紙屋町にあった喫茶店。クラシック音楽を聞く〝名曲喫茶〟である。なお当時は南側に別の喫茶店(珈琲亭)が隣接していた。
みゅーず地図みゅーず跡
 みゅーずは1954年開業、高瀬川沿いにあり、クラシックの豊富なコレクションや本格的なオーディオ装置はもちろん、赤い屋根や、れんが装飾の壁、ステンドグラスの窓など趣のある店構えで人気を集め、京都を代表する名曲喫茶の一つだった。
 長沼さんはどの曲をリクエストするかいろいろ迷ったという。
 「近年、木屋町周辺で飲食店の業態が急激に変化。近くの河原町通でも、老舗書店の丸善が撤退するなど環境が変わり、夕方から夜にかけての客が減少し続けたことから」(「木屋町の名曲喫茶「みゅーず」閉店」『京都新聞2006年5月9日』(京都新聞社、2006年))、2006年に閉店した。  
 現在は焼肉店になっている。
☞1967年11月18日「昼には生協の安くてまずい御飯を食べて生きている」
荒神口食堂
シアンクレール

 どうしても会っておきたい女性だった。午後5時すぎから始めた取材が終わると、時計は11時半を回っていた。
 仲良しだった同級生に離れていかれた長沼さんの立場は本来複雑だ。「言っていいんだろうかという思いがずっとありました。でも、もう話してもいいかなって。想像ではない彼女の実際の姿を知ってもらう参考になればと思いました」。
 最後に「きょうはめっちゃうれしかったですよ!」。その明るさに引き付けられた。
 ※注は本ホームページの文責で付した。

 インタビューは2013年11月1日に行った。

 本ホームページへのご意見・ご感想をお寄せください☞ご意見・ご感想・お問合せ

  1. 高野悦子「二十歳の原点」案内 >
  2. 証言・二十歳の原点 >
  3. 大学1年で一緒の長沼さん「日記に命を懸けてたエッチャン」