高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和38年)
1963年 1月12日(土)

小学校同級生・野々村さん「憧れの人、高野悦子」

 西那須野町立(現・那須塩原市立)東小学校で同級生だった男性と会って、高野悦子と当時の西那須野町での子どもたちの生活を中心にうかがった。
 この同級生の男性は、『二十歳の原点ノート』に登場する「野々村さん」である。
 野々村さんの都内にあるオフィスを訪ねた。


明朗活発で人気者だった小学生の彼女
 野々村:『二十歳の原点ノート』を読んで、これは私のことだなってすぐわかったよ。「野々村」って名前で出てくる。高野悦子とは小学校と中学校が同じだった。
 1963年1月12日(土)の
 ポケットに手をつっこんでフサフサした毛の犬をゆうゆう散歩につれていく野々村さんがいた。
 これが私なんだけどね。向こうも白っぽいイヌを連れてたな。いつもあの辺散歩してたから、会ってると思うよ。
 1963年10月14日(月)の
 西中生徒新聞に「忘れえぬ人」と題して、野々村さんが相川さんについて書いたものがのっている。

 これは、その前に国木田独歩の「忘れえぬ人々」(『少年少女日本文学全集1』(講談社、1962年)所収)というのを読んでて、作文の時間に何か書けと言われた時に、同じ柔道部だった相川が親の仕事の事情で中学3年生で転校しちゃったんで、たまたま去って行った人だから「忘れえぬ人」って相川のことを書いたんだ。
 国木田独歩(1871-1908)は明治時代の有名な小説家だが、1895年に栃木県塩原村(現・那須塩原市)の旅館・上会津屋に宿泊したことを日記「欺かざるの記」に残しており、那須塩原市(塩原地区)ゆかりの人物の一人になっている。

東小跡 彼女のことを知ったのは小学5年生で一緒のクラスになってからだね。その前から彼女がいるという話は知ってたけど、女の子とは遊ばないから。同じクラスになってはじめて“ああ、いたんだなあ”って。
 そうしたら、頭はいいし、美人だし、勉強はできるし。今は勉強ができるのを頭がいいって言うけど、それとは違って、彼女は頭がよくて勉強もできる。性格もよくて、いい所のお嬢様だしね。
 同じクラスの男子から離れて見てると、“へえ、すごい人もいるもんだ”と。私もそうだけど、とにかくみんなの憧れだった。

 色が白くて、それも抜けるように白くて。小柄だから一番前の席で、小学5年生か6年生の時に、私が太っていたころ、身体検査の時に私が体重52キロで高野悦子が20何キロで「半分くらいしかないんじゃない」って話したのを覚えてる(笑)
 みんな「カッコ」「カッコちゃん」って呼んでて、「カッコ」って絶対に和子を縮めたに決まってるから、当時は悦子なのにどうして「カッコ」なのかなあって思って。

☞二十歳の原点1969年5月26日「カッコ」

 明るくて活発で積極的に運動もしていた。たとえば校内ソフトボール大会というのがあって、5年生や6年生になるとチームを男女で組み合わせるんだけど、彼女は小柄でソフトボールのボールは大きくて、女の子っぽい投げ方で運動神経抜群とまではいかないけど、必死になってやってた。
 だから、後から本で「心臓弁膜症との診断で過激な運動を制限される」(「高野悦子略歴」『二十歳の原点』(新潮社、1971年))って知って、“えっ”と思った。
 ただ小学校5年生か6年生で、何か運動の話をした時に、野々山が「カッコちゃん、実はちょっと体がね…」という言い方をしてたから、一緒に遊んでいる周りの子には小さいころから心臓に病気があるということを話していたと思うんだよ。今から考えると、そうだったんだなあって記憶がある。

 そして5年生の時と思うけど、高野悦子が授業中とにかく手を挙げていろいろ答えるじゃない。そしたら「ひいきされてる」って女の子どうしで言われたんだ。
 本当はそうじゃないんだけどね。彼女は頭がよくて勉強もできるから、反応がよくて手を挙げて、そうすると先生が指すじゃない。それを「ひいきされてる」って。彼女の家庭環境もあって、妬みだよな。
 担任の男の先生に「女の子がひいきしてるって言うんだけど、俺やってないよなあ」って相談されたことがある。自分は「そうじゃないと思いますけど」って言ったけど、先生は「そう言われてるんだ」って。
 それから彼女は、とたんに授業中目立たないようにするようになった。勉強はできるんだけど、「ハイっ!」って手を挙げるんじゃなくなってきた。なるべく目立たないように、実際はできるんだけど控えめなふうに、はたからそう言われないようになっちゃった時がある。
 それでもスポーツは明るく積極的にしていた。「明朗快活となりクラスの人気者となる」(「高野悦子略歴」『二十歳の原点』(新潮社、1971年))は、本当にその通りだよ。

東小学校卒業 あと、われわれの年代から東小学校で鼓笛隊を編成して、私は当時体が大きくて大太鼓を打ってた。それで彼女はアコーディオン2人のうち1人をやっていた。地方の町でピアノが弾けるのは当時珍しかったから、アコーディオンをやったと思う。鼓笛隊は交通安全とか学校の運動会も含めていろんなイベントがあって、いつも一緒に行ってたなあ。
 6年生の時に授業中、彼女が一番前の席で自分は一番後ろで、ずっと彼女の顔ばっかり見てたこともあったな(笑)。先生の顔なんか全然見てなかったから、周囲の子はわかってただろうね。先生なんかもっとわかってるか(笑)

 高野悦子は私の初恋の人だよ。
 憧れの人だったなあ。勝手に憧れているだけの片想いだけどね。
 だから小学校を卒業する時は悲しかったけどね。割と私も早熟だったから。

西那須野町立東小学校

中学校と生徒会活動

現在の西那須野中学校 野々村:西那須野中学校には、旧・西那須野町の東小学校と西小学校と南小学校の主に3校から進学してくるんだけど、西小学校と南小学校からの連中は「高野悦子」って言ったら〝ワーッ〟で(笑)
 そりゃ美人で頭がよくて目立つもの。だから他の小学校から来た連中もたくさん彼女に憧れたんだ。

西那須野町立西那須野中学校

 もっとも中学校で自分は彼女と同じクラスにならなかったからね、そのうち自然に何ていうことなく小学校の時の熱は冷めていっちゃったんだけどね。

西那須野中学校講堂 それでも小学校の時のことがあるから、私は柔道部に入ったけど、西那須野中学校は同じ講堂の中で柔道部と剣道部と卓球部がいっしょに練習をやってたんだ。彼女は卓球部だったから、3年間同じ講堂で練習をやっていて、顔を合わせたりもした。
 それと通常のクラスとは別に、中学2年生の時から、高校進学する者を対象に英語と数学で能力別クラス編成(選択クラス)もあって、できる生徒が同じクラスに集まるので、そこには私と彼女はいたけどね。
選択クラス

 それから1963年4月5日(金)の
 私は四月から生徒会副会長なのだ。西中(西那須野中学)のあらためるべき点、大いにのばすべき点などを考えなくてはならない。

 これは中学3年生の時で、私が生徒会長だから。
 生徒会長をやっていた時に、高野悦子は頭がいい人だなあとつくづく思ったことがある。
 生徒会で今まであまりやらなかったのに、老人ホーム慰問だなんだかんだといろんなイベントをやるようになった。私がたくさんいろんなの作っちゃったんだ。
 それで何かのイベントの時に募集したらあまり集まらなくて。私が「じゃあ、やっぱり募集期間を延ばそうよ」って言ったんだ。
 そうしたら副会長の彼女が「逆よ。締め切りを短くした方がいいわよ、その方が集まるから」って言って。
 “そういう発想か、なるほど違うな。頭がいいなあ”って、その時に思った。私はものすごく単純だから。結果として募集期間を延ばしたのかどうかは忘れたけどね。

残っていた一枚の写真

 野々村さんが取り出した『二十歳の原点ノート』の単行本。
 そこには野々村さんが自ら撮影した高野悦子の写真が挟んで残されていた。

野々村さん所蔵 野々村:死んだ私の母親が〝原点〟〝序章〟〝ノート〟の単行本3冊とも買っていた。母親も高野悦子のことをよく知ってるから「感激した」と。それで私は引っ越す時に高校までの集合写真とか想い出の品をほとんど廃棄したんだが、この単行本3冊は捨てないで家に置いてあった。
 今回その『二十歳の原点ノート』を開いてみたら高野悦子の写真が出てきた。他の写真類は引っ越しで全部処分したのに、たまたま本に挟んでいたから唯一残っていたんだ。
 写真は中学3年生の修学旅行で松島や中尊寺に行った時に、“ちょうどいいや”ってどさくさに紛れて、私がオリンパス・ペンというハーフサイズカメラで撮影したんだ。「撮らせてくれよ」と言ったら、彼女が「いいわ。でも1人じゃアレだから」って。だから彼女と同じクラスで宇都宮から移ってきた倉橋が来て一緒に写ってる。
 『二十歳の原点ノート』を読んだら、最初は私のことも気があったみたいだけど、だんだん感情的に杉本の方にいくんだよ。「あー」って思ったら、中学3年生くらいになると完全に杉本が好きだったみたいだ。たしかに彼女が亡くなる以前にも、同級生だったヤツに「最初お前だったけど、だんだん杉本の方みたいだったぞ」と言われたことがあるから。

 オリンパス・ペンは、精密機器メーカーのオリンパスが製造のカメラで1959年に発売された。安くてコンパクト、しかもフィルムが高価な時代に通常の35mmカメラの2倍の枚数が撮影できるハーフサイズカメラであることが人気を集めて、1960年代を代表する小型カメラの一つとなった。
野々村さん撮影ポイント

最後の会話

 野々村:中学校で彼女だけ唯一、宇都宮女子高校に進学することになって、宇都宮に行っちゃった。
 当時は高校進学率が全国7割で栃木県6割と言われ、西那須野中学校の私のクラスは半分以上が就職してたからね。私が知ってるかぎりでは中学校同学年の300人弱のうち女子で四年制大学まで進学したのは高野悦子ともう一人くらいしかいなかったと思う。

 それからどうなっているのか全然知らないから、〝ノート〟後半を読んだら、1963年8月10日(水)に1回出てくるんだ。
 野々村さんと三木さんがくる。
 ※「三木さん」は文庫版ならびに新装版では「木村さん」になっている。『二十歳の原点ノート』で先に登場する中学校の担任教諭「三木先生」と重複していたのを正したと考えられる。

 忘れていたけど、彼女が高校3年生の夏休みに実家に戻ってきてる時に遊びに行ったんだ。三木というのがだれだかも覚えてないけどね。近くをウロウロして“帰ってるな、行こうぜ”という感じで行ったんだろう。それまで一度も遊びに行ったことないのに、自分もずうずうしくなっていたんだろうな。

 日記には出てこないけど、大学1年生の夏休みか春休みに、私1人かどうか忘れたけど、京都の方はどうかなという話を聞きに、高野悦子の実家に行って、一回だけ話をしているんだ。
 それで彼女と話をして、“もう別世界の人だなあ”と思った。そのころ、もう部落研とかいろいろやっていたみたいで、向こうからこっちを見れば“相変らず単純な人が単純なことを言ってる”と思っただろうな。
 その時の会話で唯一覚えているのは、私も下宿して自炊をしていたから、「自炊でも何かやってるの?」と聞いたら、彼女は「できないもん」って言った。
 私は「できなくちゃだめじゃないか」って言ったけど、よく考えたら自炊する設備がないという意味での「できない」だったんだなあと。あとから考えて自分もばかなことを言ったなということを覚えてる。
 それからは彼女と会ってない。

西那須野の生活

空から見た西那須野町中心部全景 野々村:小学校の時は今から思うと狭い範囲だった。東小学校や家の回りだけで遊んでた。
 とにかく団塊の世代だから、そこら中に子どもがもうウジャウジャいたから(笑)。同級生、1年上、1年下がゴロゴロいて、私は幼稚園に通わなかったけど、うちにいても集団保育やっているのと同じだった。
 子どもの時は女の子と遊ばないから、女の子は女の子たちだけでと思うけど、結構、道でいろんなことをやって遊んでた。当時の西那須野は在来線の急行が停車して塩原とかへの乗り換え駅だったこともあってにぎやかだったが、車は少なくてまだ荷物を運ぶ馬車も走っていた。
 高学年になったらもう、学校行ってソフトボールとかやって遊んで。学校開放も何もなくて当たり前で、暗くなったら「帰れって」と言われて(笑)。中学校も近かったし。

 団塊の世代(だんかいのせだい)は、第二次世界大戦後の1947年から1949年にかけてのベビーブーム(第一次ベビーブーム)の時期に生まれた世代をいう。日本の人口構成上、突出して多い。
西那須野町

 彼女が亡くなったことは、1969年6月に西那須野の家に戻る機会があった時に聞いた。その時はショックだったけど、もう彼女は遠く離れていたから、そうか自殺したのかというくらいだった。“本人が選んだからしかたない、でももう少し生きてりゃ、人生もっと楽しいことがあるんじゃないか”と当時から思ったけど。
 その後、私は学生時代にまた西那須野に帰った時に那須文学を手に入れて読んで、大きな衝撃を受けた。等身大というか、ああいう悩みはわかるから。私の中では小、中学校の積極的にスポーツをやっていたイメージのままだった。もっと明るくて、少なくとも日記の最後の亡くなった年の感じじゃなかったからね。
 彼女は素直で真面目すぎるんだ、育ちがいいんだよ。
 今考えれば、大学の時に東京に来てたら違ってたんじゃないかなあ。だって小学校や中学校時代も含めて西那須野からの知り合いがたくさん来てたもんね。

 西那須野中学校で自他とも認める学年トップで、生徒会長も務められた野々村さんは、聡明な方だった。
 この件で取材を受けるのは初めてということだったが、お話が上手で時折明るく冗談を交えながらも、あくまで冷静かつ客観的な目で当時の状況を正確に振り返ろうとされたのが印象的だった。
 高野悦子が一目置く存在として日記に記述していた通りの人だった。
 ※話中に登場する人名の敬称は略した。注は本ホームページの文責で付した。

 インタビューは2013年5月21日に行った。

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