高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和41年)
受験①

 本項においては、高野悦子の受験勉強中の生活についてふれる。

1966年12月19日(月)
 入試まで丁度あと六十日である。

 高野悦子が本命と位置付けている立命館大学の入試日を念頭においた逆算である。

1966年12月25日(日)
 親子共々五人でブリッジをした。

 学校が冬休みに入ったため、高野家の家族5人全員がそろった形である。
 ブリッジは、トランプを使ったゲームの一つ、セブンブリッジのこと。麻雀に似たルールがある。

 旺文社モギの結果をヒロ子ちゃんにみせたらこういわれた。「カッコは出来ないね」。

旺文社模試

 旺文社模試は、教育出版大手の旺文社が大学受験生を対象に全国規模で行っていた入試模擬試験である。
 1948年から始まり、当時は同種の模試の中で参加者数が圧倒的に多く、その成績が受験先決定・指導で大きく参考にされた。第2志望以下(いわゆるスベリ止め)を決める際の判断材料にもなった。
 旺文社の昭和41年度第3回入試模擬試験は1966年11月13日(日)に行われ、40万3031人が参加した。1967年春の大学受験予定者(78万1000人)の51%に及んだ。会場には都内の大学などもあてられたが、高野悦子は学校単位の申し込みのため、宇都宮女子高校で受けた。
 模試の成績は、約1か月で本人に通知された。なお学校単位の申込の場合、学校を通じて通知されるしくみ。

 旺文社模試は最盛期の1967年には42万人が参加した。「しかし’79年からの共通一次試験を契機に大手予備校なども大規模な模試を始めるなどしたため、参加者が減り続け」、「少子化で大学受験者の減少も一層加速することが予想され、継続は困難と判断」(『旺文社模試、今年度限り』「朝日新聞2000年11月10日」(朝日新聞社、2000年))、2000年度末で終了した。
☞二十歳の原点1969年5月26日「中村は「かっこ(注 悦子さんの愛称)は自分を見失っているのではないか」といった」

1966年12月26日(月)
 立命館と明治の二つだけをうけるつもりだったが、旺文社モギの結果をみて、あと一つ、東洋大文学部史学科を受けようと思った。

立命館大学受験広告明治大学受験広告
 東洋大学は結局受験せず、代わりに国学院大学を受験することになる。
☞二十歳の原点ノート1966年10月24日「受ける大学─立命館・(早稲田)・明治・日大・中央」
☞1967年3月10日「二十五日 国学院大試験」

 二 試験日 二月十九日

 立命館大学入試の地方試験場(東京は法政大学富士見本校)の試験日は、全学部とも1967年2月19日(日)だった。
 受験料は5,000円で、郵便為替にして郵送した願書に同封した。

 五 費用
  a 初年度納入金総額 九五五〇〇円 △専攻別募集
  b 入学時最低納入金 六三五〇〇円
 1967年度入学者の初年度納入金総額は下記の通りであり、立命館大学の授業料は私立の総合大学の中では全国で最も低かった。“庶民の大学”のモットーを堅持していた。ただし国公立大学との差は歴然としていた。
大学・学部 初年度納入金総額
 立命館大学文学部 95,500円
 早稲田大学第一文学部 185,600円
 慶応義塾大学文学部 179,850円
 東京大学教養学部文科三類 20,800円

 初年度納入金総額95,500円のうち入学金25,000円などをのぞく授業料等が64,000円(授業料47,000円+施設費17,000円)で、このうち半分にあたる32,000円は入学手続時に納入する必要がなかった。
 入学時最低納入金は、要するに、あとから別の志望大学に合格した場合に辞退するつもりで入学手続を行うために必要な金額を意味することにもなる。

1967年 1月 1日(日)
 塩原、憩の家にて
 例年通り、塩原で新年を迎えた。

 12月31日(土)から滞在し、「第17回NHK紅白歌合戦」(NHKテレビ)(午後9時5分~午後11時45分)を見て、新年を迎えた。
憩の家
☞1967年12月31日「去年の今頃は、塩原の憩の家でやっぱりこれを見ていたのか」

 18歳の誕生日である1月2日(月)は、日記の記述がない。
☞1967年12月31日「十八歳の誕生日にも、ただ入試合格のみを願っていた」

1967年 1月14日(土)
 一月十四日(日)

 1967年1月14日は、日曜日でなく土曜日である。

 晴

 宇都宮:晴・最低-5.0℃最高8.6℃。

 三学期が始まってから、日本史を猛烈にやり始めた。そしてやっと今日、明治維新から現代まで終った。本当ならば今日は封建後期全部を終らす予定であったのだ。

 日本史を過去に向って勉強している。教科書・参考書の分量でいうと、明治維新から現代までで全体の5分の2弱にあたる。

 家のことを考えたり、「歴史読本」を読んだりしていた。

☞1966年11月23日「「歴史読本」をかってき」
 「人物往来歴史読本1967年2月号」(人物往来社、1967年)の特集は「立体構成─坂本竜馬」。

1967年 1月19日(木)
 一月十九日(金)

 1967年1月19日は、金曜日でなく木曜日である。

 晴 午後風強し

 宇都宮:晴・最低-6.7℃最高12.8℃。午後になって西から北にかけての風が強かった。

 自分でああなりたいと思っても、それを行う勇気がないのだから。
 でもがんばり通したのだ。

 立命館大学文学部の入試(2月19日)を、ちょうど1か月後に控えての記述である。

1967年 2月16日(木)
 かえりみちのほしがきれいだった。

 2月15日(水)の宇都宮:晴・最低-7.9℃最高5.4℃。夕方から雲が減った。

  1. 高野悦子「二十歳の原点」案内 >
  2. 宇都宮で >
  3. 旺文社模試 納入金