高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)
1967年 5月10日(水)
 雨

 京都:雨・最低15.3℃最高18.1℃。午後7時まで雨が続いた。

 部落研に入部した。
立命館大学一部部落問題研究会

 高野悦子が入部したのは、立命館大学一部部落問題研究会である。
 立命館大学部落問題研究会(部落研)は、1956年5月に部落問題研究所の部落問題夏季講座が立命館大学で開かれたことをきっかけに、1956年5月27日に設立。翌1957年に一部と二部に分離した。
 部落問題研究会は、いわゆる被差別部落の問題とその改善に取り組む学生団体で、実際には学習会や地域での子ども会活動などへの参加を行っていた。立命館大学の場合、部落研は当時、民青系の強い影響下にあった。

 共産党系の機関紙は、高野悦子の部落研時代について、「彼女は、入学後、部落問題研究会にはいり、西三条で部落の青年たちとともに子ども会の活動に熱心に参加していた時期がある。当時、ともに活動した青年は〝明るくてまじめな子やった〟という」(「敗北と挫折の終着点─「二十歳の原点を読んで」─」『京都民報1971年10月17日』(京都民報社、1971年))としながら、「何不自由なく裕福な家庭から大学にきた彼女は、結局のところ、部落問題を自分の問題としてとらえることができなかった」(「敗北と挫折の終着点─「二十歳の原点を読んで」─」『京都民報1971年10月17日』(京都民報社、1971年))と結論づけている。

 部落研の部室(BOX)は、広小路キャンパス北東にある学生会館の2階東側にあった。学生会館は主に文化系の各サークルに部屋が割り当てられていた。
部落研BOX北東側から見た建物
 部落研は部員の減少等で後になくなった。学生会館は建て替えられ、現在は別の私立大学の校舎になっている。
1973年の学生会館学生会館跡
☞1967年4月23日「実際問題となると部落研か底辺問題研究会の二つしか思いうかばず」

 長沼さん達は早速活動し始めて、

 直前に出てくる部落研と文章上つながりがあるようにみえるが、「長沼さん達」は部落研と直接の関係はない。別の話である。

 また自治会委員長立候補者をたてる際、

☞1967年6月4日「自治委員選挙の告示が一日に行なわれ」

1967年 5月11日(木)
 曇

 京都:晴・最高28.9℃最低13.8℃。

 部落研の子供会活動に初めていった。

 ここでの子供会活動とは、いわゆる同和地域で子どもたちが集会所などに集ってレクリエーションやクリスマス、餅つき、送別会といったイベントを行う活動をいう。特有のものとして、教育環境に恵まれない子どもたちが勉強を教わることもある。部落研では、これに加わり、子どもたちと直接ふれあう活動をしていた。
 部落研は地域、学内、出版の3つのパート(班)に分かれており、このうち子ども会活動を中心にするのが地域パートで高野悦子もここに入った。地域パートでは主に1、2年生の部員が週に数回、夜に大学から地域の施設に出向く。ただ他のパートの部員も子ども会活動には顔を出していた。
☞二十歳の原点巻末略歴「以来八カ月、毎夜、地域の子供会活動に参加」
京都市立壬生隣保館

 卓球サークルに入ったが、

 地域の子ども会活動には当時、卓球と柔道のサークルがあった。それ以前には他のサークルとして体操と文芸も存在したが休止していた。
 高野悦子は、西那須野町立西那須野中学校時代に卓球部に在籍していた。
☞二十歳の原点ノート1964年7月23日「西中の卓球部の合宿が二十六日から二十九日まであるので」

 長沼さん、浦辺さん、桜井さん、松田さん、北垣さん達のグループはそれぞれ民青の会員として活躍している。いわゆるオルグ活動を始めた。

 この段落も5月10日の記述と同じく直前に出てくる部落研と文章上つながりがあるようにみえるが、長沼さん以下5人の「グループ」は部落研と直接の関係はない。日本史学専攻の同級生のうちの民青のメンバーという意味である。
 オルグとは、組織・団体への勧誘をいう。英語のorganaizeの略称である。
民青

 私も勢力地図(イヤなヒビキをかんじる)の一端にのせられオルグの目的人となっているのかな。

 実際には、入学以降の「茶話会」、「歴研」、「親ぼく会」のいずれもオルグの一面があったとされている。オルグといっても勧誘である以上、理論的な説得だけでなく情に訴える性格もあり、接触機会を多くもつことが最も基本的な手段と考えられるからである。

 部落研のBoxの中で

 Boxは、仕切りで囲まれた部室のことをいう。

1967年 5月13日(土)
 曇

 京都:曇・最低15.3℃最高30.2℃。一日中、雲が多かった。

 これじゃおばさんもあまりいい顔をせず、心配するはずだ。

青雲寮

 きのうは勤労会館で「学生の未来を語る大講演会」という会があり、日本共産党青年部長という人の話を聞いた。

会場内写真 学生の未来を語る大講演会は、学生新聞京都支局・民主青年新聞(民青新聞)京都支局の主催で、5月12日(金)午後6時から京都府立勤労会館で開かれた日本共産党の学生向け講演会である。学生新聞と民青新聞は共産党・民青系の機関紙。
京都府立勤労会館

 約1,200人が集まり、短編記録映画『ハノイはたたかう』(日本電波ニュース社、1966年)が上映された後、共産党京都府委員会青年学生部長の西山秀尚が集会の趣旨を述べ、学生新聞・民青新聞の講読を訴えた。
 そして日本民主青年同盟(民青)学生対策部長の川上徹が「学生運動と民青同盟の任務」について約50分、次いで共産党青年学生部長の広谷俊二が「大学の自治と学生運動」について約1時間30分にわたって講演した。

講演会の広告 広谷の講演について機関紙では「大学自治の形成と反動勢力の自治破壊の策動について歴史的に概括したあと、国立大学協会の「所見」に示される大学自治のあり方について解明、とくに、大学の自治を教授会の自治に限定し、広範な研究者とりわけ学生の自治と対立させる否定的見解を批判するとともに」「インテリゲンチアのはたすべき役割をのべ、トロツキストの「インテリ論」は、インテリゲンチアを一面的に労働者と同一視するまちがった見解であるときびしく批判した」。「このあと日本革命の展望について述べ、民主主義的課題の追及の重要性を訴え、トロツキスト・反党修正主義者の「社会主義革命論」を批判した。最後に広谷氏はトロツキストの思想・一面的で機械的な思考方法を暴露した」(「学生の未来を語る大講演会─京都で盛大に開く」『学生新聞1967年5月24日』(日本共産党中央委員会、1967年))と報じている。
 川上と広谷の2人は後に、共産党内で独自の分派的活動を行なった〝新日和見主義事件〟により党から処分を受けている(川上徹『査問』(筑摩書房、1997年)参考)。

 そしてトロツキストの批判に及び、

 共産党と民青では当時、相対立する新左翼諸派の学生組織を「分裂主義者」としたうえで、「トロツキスト」や「修正主義者」と呼んで批判していた。
 共産党と民青による当時の分類は、概ね以下の通りである。
[トロツキスト]
 ・社学同(社会主義学生同盟)
 ・中核派(日本マルクス主義学生同盟中核派)
 ・反帝学評(全国反帝学生評議会)  
   以上が三派全学連に含まれる。
 ・革マル派(日本マルクス主義学生同盟革マル派)
[修正主義者]
 ・民学同こえ派(民主主義学生同盟日本のこえ派)
 ・プロ学同(プロレタリア学生同盟)
 ・フロント(社会主義学生戦線)

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