高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 2月22日(土)
 曇のち雨

 京都:最低0.1℃最高8.5℃、朝から曇で午後3時ごろから雨がちらついた。

 清心館には後期試験の時間割がはられてあったが、

清心館

 総長は言った。「立命館大学多くの欠点をもっている。欠陥があったことを認める。しかし若いエネルギーを入れようではないか」と。

 入試開始前日の2月13日(木)、広小路キャンパスで「午後3時前、大学当局は正門わきに、ようやく翌日の受験場の変更先の案内図をはりだした。それへ受験生が押しかける。そして、大学は文学部の大教室で入試賛成派の学生800人を集めて、入試に対する説明会を開く。末川博学長が詫び、かつ訴える。
「立命館が存亡をかける事態にたちいたったことは、古い制度にあぐらをかいていた私の不明であり怠慢であると深く悔いておる次第であります。…立命館はぬけがらというなら、そのとおりである。しかし、他大学に比べれば、違うものをもっているし、捨てきれない。若い諸君が改革とか変革を求めているのはわかる。それには、若い諸君が次々ときて、新しいものを生みだす力、エネルギーをたやさないことが必要である。そういう意味で入試を考えている。私学のことだから経済的に非常に大きな問題もあるし、大勢の志願者、父兄に社会的責任もある。しかし、何といっても、新しいエネルギー源をつぎこむという立場から、私は入試を考える。何とかして、諸君の協力のもとにやりたい。機動隊で守ってもらうのは、私の性にあわない。諸君でダメならやむをえない…」
 末川学長が、一般学生に切に〝ご協力〟を懇願したあと、大学側と学生の間のやりとりが続いて、入試実施に全学の意思を結集しようということで一応この会はまとまった」(朝日ジャーナル編集部「「東大以降」に展開する大学紛争─京大、立命館にみる新しい問題提起」『朝日ジャーナル1969年3月2日号』(朝日新聞社、1969年))

 全共闘アジビラは、入試を闘争の収拾策動であるといった。
 立命館大学全学共闘会議文学部闘争委員会(文闘委)が2月12日(水)に出したアジビラ「文闘委ニュース」で入試実施を収拾策動と位置付けている。
ビラ「文闘委ニュース」
文闘委ニュース1969年2月12日 文闘委ニュース(1969年2月12日) 文学部闘争委員会常任委員会
 本日の全共闘─理事会大衆団交を貫徹し、「立命民主体制」解体へ更なる進撃を開始せよ!
 収拾策動としての入試強行実施実力阻止!
 全国学園闘争と連帯し、断固武装バリケード闘争を闘い抜け!

 全国で最も近代化されブルジョア的に整備された「立命民主体制」は、中川会館バリケードが開始された半ヵ月のうちに、もろくもその腐敗せる醜態を露呈した。この理事会の独裁的専制支配は、極めて巧妙な「民主的ルール」=全学協、学振懇の幻想のベールによってその構造を隠蔽されていた。立命大理事会は、学内理事と学外理事で構成されることにより、社会内国家─総資本─教育資本として大学の帝国主義的支配の貫徹を、教育末端まで行いうる最も優れたブルジョアジーの方策の中枢機構である。「大学の自治」─「教授会自治」の一片たりとも存在しえない。この恐るべき立命民主体制は、日大古田反動体制の強権的ファッショ的支配に増して劣らぬ帝国主義的大学統制秩序のなにものでもない!
 我々は、飼い慣され、処理されてゆく豚であることを拒否し、抵抗し始めたのだ。我々のバリケードは、学生総体が日常生活の意識下にある何ものかを現実態として対償化してみせることにより、一人一人の実存を問いつめてくる。そして我々は、闘う唯一の武器がバリケードであることを経験的に洞察した。この濫立する立命体制=ブルジョアジーの牙城体制の闘いは、我々の学生としての存在の自己否定を媒介しての追求しえることを我々は確信する。甘い夢と共に「学生々活」さえ保障しえぬブルジョア社会=帝国主義的支配秩序と決別した。バリケードに仕切られた新しい時・空間で、始めて生きるための学問が何であるかを問い始めた自己を見出した。そして今、我々は、バリケードの外で何が起きつつあるかを凝視し、狡猾なる敵に新たな闘いを宣告せねばならぬ。
 全ての闘う学友諸君! 一切の収拾策動を廃し、全学10項目要求貫徹まで闘い抜け! 学校当局─日共─校友会幹部でロックによる入試強行実施なる策動を断じて許すな!
 文闘委は、一時たりと云えども闘いの方向性を明示しえなかったことに深く反省する。そして、敵の陰険な闘争破壊が、入試問題をめぐる新たな学内の流動の中で開始されていることを警戒せねばならぬ。日共─「学友会」一派の悪質なるデマ宣伝である『私学危機=入試粉砕→立命崩壊』に恫喝された「一般学生」諸君が、ナイーブな愛校精神を発揮し「闘いの初心」を忘れ始めていることに我々の闘争の最も困難な壁を見なければならぬ。大学当局は、自らの教学体制の完璧なまでの崩壊を隠蔽し、校友会幹部─日共─「一般学生」の助けを借りて、入試強行を企み、他方では、2月12日全共闘との大衆団交を「話し合い」に応じると云う態度は、全くの欺瞞である。当局の本意は、全共闘の闘いの孤立化であり、一切の断捨のみである。(諸君! 文学部の卒論の咨問を見たまえ! 日本史に至っては咨問なくて、卒業パスというではないか! 彼らの収拾とは、労働力商品工場への回帰なのだ!)そして、当局の頼みの綱である昨日の校友会による「入試実現」キャンペーンもあえなく失敗に終った。今文闘委は、全ゆる困難に抗して、入試の実力阻止を宣言する。(以下、略)

 今「反逆のバリケード」を読んでいる。

叛逆のバリケード表紙本の広告 日本大学文理学部闘争委員会書記局編『増補・叛逆のバリケード─日大闘争の記録』(三一書房、1969年)のことである。当時490円。
 「過去20数年来の政府・文部省の教育行政そのものの破綻は、すでに幾多の人によって語り尽くされている。だが、その破綻を正しく認識し、正しく実践してきたのなら─とはいえ、現社会体制においてはできないことだが─日本の教育は、破綻の道を逃れ、反動の道をこれほど突き進んではいなかっただろう。
 我々が、もし「何か」を考える事ができたとしたら、我々は、その「何か」を必ず実践しなければならないだろう」(日大闘争の記録編集委員会『まえがき』日本大学文理学部闘争委員会書記局編『増補・叛逆のバリケード─日大闘争の記録』(三一書房、1969年))
 当時の広告では「10万学生の蜂起! 怒りと抵抗の砦で学生たちは、いかに闘い、なにを創造しようとしているか。闘うもの自らによって武装バリケードのなかで書かれ・編集されたこの<人生の歴史>は、血の弾圧と対決する「占拠の思想」の宣言であり、日本学生運動の新たな息吹きである。厳しく美しい若者たちの自己変革のドキュメント!」。

1969年 2月23日(日)
 晴

 京都:曇・最高9.1℃最低0.9℃。

 生の燃焼は不合理なものではないか
 独りであること、未熟であること、これが私の二〇才の原点である
 彼のもつ不平不満は、演技者としてのまずさにあるのではなく要請された役割の中にあるのだということを、大学生活という環境の中で知った。
 その血は、ほとばしる生命である

 那須文学社版の記述。それぞれの文章の引用元の日記の日付が参照されている。
☞1969年1月5日「生の燃焼は不合理なものではないのか」
☞1969年1月15日「「独りであること」、「未熟であること」」
☞1969年1月17日「彼等のもつ不平不満は、演技者としての私のまずさにあるのではなく」
☞1969年2月5日「その血はほとばしる生命である」

 以前はこのノートに、胸につまった言葉を吐き出す、ぶつけることに意義があったのだが、

 上記の記述が、「胸につまった言葉」にあたると考えられる。

 二十日の機動隊とのぶつかり合いの後、いろいろ考えた。

☞1969年2月20日「機動隊の腕のあたりをポカンとやったら」

 全共闘によって築かれた正門のバリケードは、闘争弾圧の機動隊─国家権力の否定であった。
 広小路キャンパスへの機動隊の立ち入り後、文闘委は2月20日(木)、アジビラ「文闘委ニュース」で次のように主張している。
文闘委ニュース1969年2月20日 真に国家権力と戦ったのは誰れか!
 文闘委ニュース(1969年2月20日) 文学部闘争委員会

 国家権力=機動隊に守られて集会を開いていた日共=民青
 本日、朝7時頃機動隊が西門より入ってきた。最早、立命館を牛耳じる日共首脳人は、立命民主体制も崩壊し、話し合い路線さえも捨て去り、彼らの権力者としての素顔を現わした。西門に座り込んでいたはずの民青学友会一派は、何らの抵抗さえもせず「安保廃棄・学園民主化放送」なるものは、正門で座り込み、最後までスクラムでもって権力に抵抗していた我々に対して、「挑発をやめよ!」と叫んでいた。権力に対する抵抗を挑発といって自主規制していたら、権力に対する戦いなどありはしない。その上破レン恥にも、我々全共闘と権力の闘争破壊に起ち上った学友1000名余りが学外へ実力排除されているとき民青の放送は、「挑発はやめろ」と叫び、全共闘に一切の責任をなすりつけようとし、権力に我々を売り渡す策動を懸命に行なった。
 たった200名程度の民青学友会一派が「わだつみ像」の回りをかこんで座り込み、「落ちた偶像」を権力に守られながら取りかこんでいたごとくである。我々は学外ですぐ抗議のデモ行進を行った。機動隊の弾圧の中、我々は、怒りにもえた学友の起ち上りの下、1000名にも及ぶ学友を結集して、寺町・荒神口、河原町に抗議の無届デモを展開した。
 最も注目されねばならないのは、権力と結びついた日共民青である。末川総長自身「入試」が無事行なわれたことについて、警察の学外待機が効いていたと礼に行ったのである。そして、今回、機動隊の校内立入を「拒否しない」といった。すなわち、全面的な立入りを認めたことである。民主的というベールをはがされた立命は体制的であるばかりでなく、反動的性格をはっきりと現わした。そして民青学友会一派はもっとも犯罪的な役割をはたした。先進的戦闘的学友を権力に売り渡し、権力を笠にきて、我々の闘争破壊を企て、自らの党派的利害をのみねがい、右翼との神聖同盟を形造り、危機的局面を切り脱けようとしている。
 全ての学友諸君、今こそ学園闘争の阻害物としてはっきり対峙している日共民青を大衆的に粉砕しないかぎり、我々の闘争勝利の展望は望み得ない。
 2/21存心館前抗議集会12じより
 ・学校当局=国家権力による闘争破壊、弾固抗議!
 ・日共民青の学園軍事支配を許すな!

1969年 2月24日(月)
 私には「生きよう」とする衝動、意識化された心の高まりというのがない。
 生命の充実感というものを、未だかつてもったことがない。

 『叛逆のバリケード』の巻頭に所収されている詩「生きてる 生きてる 生きている バリケードという腹の中で 生きている…」(日本大学文理学部闘争委員会書記局編『増補・叛逆のバリケード─日大闘争の記録』(三一書房、1969年))と対比する記述。
 この詩は高野悦子のこの後の行動に一貫して影響している。
☞1969年2月22日「今「反逆のバリケード」を読んでいる」
☞1969年6月22日「一・〇〇PM 生きてる 生きてる 生きている」

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