高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 4月11日(金)
 一時清心館前で待ち合せ。立命の広小路キャンパスは、いかにも新学期といったムード。サークルの新入生勧誘の出店が並ぶ。
 存心館横のサクラは開花した花と初々しい若葉のコントラストがはなやか。

 4月9日(水)から4月12日(土)まで、校庭では新入生向けのサークル勧誘が行われていた。
キャンパス内の校舎新入生歓迎風景
清心館

 ちょっと冒険のつもりで京都ホテルのコーヒーパーラーにいく。グレーのセーターに紺のスカートの例の姿である。赤と白で統一したしゃれた感じだったが、コーヒーがぬるかったのはまずい。コーヒー一杯でしめて三三〇円。ロビーでゆっくりして外に出る。

京都ホテルコーヒーパーラー

 京都ホテルコーヒーパーラーは、京都市中京区河原町通御池上ル一之船入町の京都ホテル新々館(北館)2階にあった喫茶店である。
京都ホテルコーヒーパーラー地図コーヒーパーラー外観
 京都ホテル新々館(北館)は地下1階地上9階、1970年大阪万国博を控えた増改築で、総工費16億円をかけ1969年3月1日に完成した(写真下左の左奥のビル)。外国からの団体旅行者や、大規模な宴会需要の増加に対応するためだった。これにより全体で客室総数517室、収容約1,000人に大型化し、京都最大のホテルとなった。コーヒーとアイスクリームが売り物で、92席のコーヒーパーラーも同時オープンだった。
コーヒーパーラー店内の様子京都ホテル新々館ロビー
 当時の京都ホテルの広告では「3月1日にオープンした新々館の入口は回転式の透明ガラスドア。はいると壁面のステンドグラスの窓から豊かな色彩が流れ込むロビー。その奥のラセン階段を上がるとコーヒーパーラー。可愛く、華やいだパーラーがある」と紹介されている。
 京都ホテルは建物全体を一新し、現在は、京都ホテルオークラとして営業している。
1969年の京都ホテル京都ホテルオークラ

 高石友也の「坊や大きくならないで」を買う。

 高石友也の『坊や大きくならないで』は、日本ビクター(現・JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)で1968年11月発売のシングル。当時370円。競作であるマイケルズ『坊や大きくならないで』(歌詞:浅川しげる)より先に発売されている。
 ただ高石友也(1941-)のシングルは訳詞になっており、「とびかう鳥よ おまえは自由」のフレーズは出てこない。なお、当時売れたのはマイケルズのシングルの方。
☞1969年4月7日「〝とびかう鳥よ おまえは自由〟」
☞1969年4月15日「高石友也の「坊や大きくならないで」をステレオできく」

十字屋河原町店

 購入した可能性のあるレコード店として、京都市中京区河原町通三条下ル大黒町にあった十字屋河原町店が挙げられる。
十字屋河原町店地図十字屋河原町店跡

 仕事にいく途中、梅沢さんと会ったら、木村さんが盲腸手術、内山さんがスキーで複雑骨折、

 梅沢さんと木村さんはワンゲル部で高野悦子と同学年にあたる3年生の女子。内山さんは4年生の女子。
ワンゲル部
仕事にいく途中会った・梅沢さん「知ってる人がいきなりですもの」

盲腸手術・木村さん「追いコンで難しい話を」

 この時に盲腸手術で話題に上った、ワンゲル部で同学年の女子、(旧姓)木村さんが当時の思い出を語った。

 木村:高野さんと初めて会ったのは、彼女がワンゲル部のPRスキーの合宿に来た時でした。彼女が入部する前、1回生の時に長野県小谷村でPRスキーの合宿があって、それに一緒に行きました。
 自分はそれまでスキーの経験がなくて、ワンゲル部のこの時に初めてスキーに行ったんです。PRスキーは部員以外の一般の方を招く形でワンゲル部を知ってもらう機会にしていました。合宿では、部員で上手な方、3・4回生から講習を受けたと思います。
 合宿でもちろん彼女と話をしたと思います。ワンゲル部員は一般の方が一緒になるだけでなく、スタッフとして一般の方を世話をしないといけないし、歓迎することになりますから。
 ただ、そんなにしゃべってはいなかったでしょうね。PRスキーに申し込むのは一人じゃなくて、何か〝つながり〟があったと思います。高野さんに友達がいて「こんな人が一緒にいる」というのを聞いた覚えがあります。
 それでPRスキーの時に来られた時に会った高野さんが、そのあとワンゲルに入部してきた時に喜びました、“入ったんだあ”って。当時のワンゲルには女子が少なかったので、ちょっとでも増えたのがうれしかったですね。PRスキーは私たちが2回生だった年からなくなりましたけど。

美山荘・わらび平スキー場
高野悦子のスキー道具(遺品)

 新人合宿の広河原は2回生の時に行きました。新人合宿と言っても、2回生だけでかなりの数の部員がいました。バスで行ったんですが、広河原は奥の方ですごい山の中でした。テントを張ってキャンプをしました。
 夏合宿は、高野さんとパーティが違っていて、集結地だけ一緒でした。自分のパーティは〝本部〟で、集結地の設営や準備をする役割でした。集結地でキャンプをしました。
 合宿のパーティやパーワンで同じグループになったことはなかったですけど、学校でワンゲルの女子が出会うことはありました。

新人合宿
夏合宿

 鶴清で開かれた追い出しコンパのことは記憶しています。あのような料亭というか料理旅館であまりやったことがなくて、「鶴清」の店名も何もかも初めての感じがしました。
 そこで高野さんと会ったことも覚えています。彼女さんは誰かと何かすごい難しい話をしていました。お膳が並んでいる所で酔っ払っているのに、高野さんは先輩にいろんな質問をして議論をしていました。“難しいことを考えている人だな”と感じたことが忘れられません。
ワンゲル部のキャンプファイアーストーム夜道ルート 高野さんの眼鏡については、その追い出しコンパか、同じ頃に学校で会った時だと思いますが、彼女が度のない眼鏡を掛けていたのを見ました。眼鏡を掛けているのを初めて見た時は、目が悪いんだと思っていたんですよ。

追い出しコンパ記念写真(眼鏡の写真)

 高野さんの葬儀には、ワンゲル部を代表してチーフリーダーの男子と2人で京都から栃木県まで行きました。葬儀はお堂のような所で行われていて、とてもショックだったので今でも残っています。
 最初に読んだのは同人誌の『那須文学』でした。葬儀に参加したためでしょうか、送っていただきました。そこに「盲腸」と書いてあって自分のことだとわかりました。最初に目にした時はびっくりしました。『那須文学』から本になっていったたと思います。
 本が出た時は驚きました。“すごい真面目な方”と思っていましたが、あそこまで深く考えていて、繊細だったとは…、読んでいて驚きました。同じワンゲル部で私たちは、普通に…たわいない話をしていただけでしたから。(談)

高野悦子の墓

 歩きながら煙草をすったら足もとがふらついてグロッキー、車のライトもホテルの明りもゆらいでいた。これはいけないとタクシーをひろおうと思ったがなかなかこない。水銀燈にもたれながら、これこそ独りだなあと思う。

 この記述で京都国際ホテルから部屋(川越宅)までのルートを特定できない。ただ最短距離ではないが、女子一人が深夜で徒歩という状況、ならびに1969年当時に「タクシーをひろおうと思った」という表現からは、ここでは大通りである堀川通と丸太町通に沿って歩いたとみるのが自然である。
夜道ルート
☞1969年4月6日「歩道の靴音をきき、車のライトをみながら鼻歌をうたって帰る」

1969年 4月12日(土)
 キャンパスでは中核がデモっていた。四・一二の何からしかった。

 4月「11日から全学部で新入生を対象にしたオリエンテーションが開始された。
 全共闘はこれに対し「全共闘の政治的孤立化─闘争の収拾、立命館体制の再編を共通利害に、大学当局と学友会の一体となった闘争破壊策動である」として連日オリエンテーションの粉砕闘争を展開してい」(『立命館学園新聞昭和44年4月14日』(立命館大学新聞社、1969年))た。

 三時頃に自転車で大学へ行く

 川越宅-(丸太町通)-寺町丸太町-(寺町通)-立命館大学広小路キャンパスとみられる。
川越宅から広小路キャンパス
 ただし寺町通の代わりに河原町通、烏丸通を利用した可能性もある。

 シアンクレールに五時半までいた

シアンクレール

 The Sound of Feelingをきいてバイト先に急ぐ。

 バイト先に急いだのは、シアンクレール─(河原町通)─(丸太町通)─(油小路通)─京都国際ホテルとみられる。
シアンクレールから京都国際ホテル
☞1969年3月11日「The Sound of Feelingなどは」

 ゆきずりを拒むものは、すべてを拒まれる。

☞1969年3月26日

1969年 4月13日(日)
 シアンクレールで「山本太郎」をよむ。彼の世界をもっと知りたい。

 那須文学社版の記述。以下、「新聞、このごろ新聞をよんでいないんじゃないか」に続く。
 ただしこの記述が、4月13日のことかどうかは不明である。

 「第二の性」もストップしているな。

☞1969年4月9日「「第二の性」を読んだら…」
☞1969年6月22日「「第二の性」は奥深く並んでいるけれど、」

 ふりかえるな。そこは、ただ闇であり、絶壁だ。
 嘲笑ではなく沈黙を。

 那須文学社版の記述。以下、「私は自分というものがわからない」に続く。

 私は全く自分というものがわからない。この肉体は何をし出かすかわからない。
 他者によって写しだされる己れ、自分は何もないのではないか。

 「自己は、「他人の目差しによって凝縮させられる」のである」(「用語解説」ボーヴォワール著生島遼一訳『第二の性Ⅰ』新潮文庫(新潮社、1959年))というのが実存主義の考え方だった。

 一九六九・四・一一のある喜劇。
 京大の入学式。
 総長の「これから入学式を始めます。新入生の皆さん、入学おめでとう」─「これで入学式を終ります」といわなかったのが、せめても、か。

 京都大学の1969年度入学式は、4月11日(金)午前、本部時計台の2階大ホールで行われた。
 「全共闘の学生が同9時すぎから会場の演壇を占拠したため、混乱。奥田総長は会場内で開会をマイクで告げ、「このような状態なので告辞文は送ります。おめでとう」と約1分間のべただけで閉会を宣言し、かたちだけの入学式となった」(「式場占拠や放火騒ぎ─混乱続く大学入学式」『朝日新聞(大阪本社)1969年4月11日(夕刊)』(朝日新聞社、1969年))。「反日共系学生たちが総長の方へ移動しかけたため、総長は逃げるように式場を出た。このため予定の入学生代表の宣誓、学歌斉唱は取りやめとなった」(「京大入学式、わずか10秒」『京都新聞昭和44年4月11日』(京都新聞社、1969年))

1969年 4月14日(月)
 甘えるな!
 おまえは おまえ自身だ!

 記述に「!」(感嘆符)を多用する用法は、当時の現代詩にあったものである。

 さすらいだ

☞1969年3月26日「ゆきずり さすらい」(那須文学社版の記述)

 Bon nuit!

 Bonne nuit!は、フランス語で「おやすみなさい」の意味である。「夜」を意味するnuitは女性名詞なので、「良い」を意味するBonがBonneに変化するのが正しい表記である。

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