高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 4月29日(火)
 晴

 京都:曇・最低13.0℃最高24.0℃。日中は雲が多かった。

 起て うえたるものよ

 「インターナショナル」の歌詞の写しである。
☞1969年2月6日「インターナショナルを歌う」

 四・二六に参加

四・二六

 四・二八に参加 恒心館に泊りこみ

四・二八 御堂筋デモ

 ここでは4月28日(月)〝沖縄デー〟の高野悦子と御堂筋デモについて、日記に記述がない動きを追う。
 高野悦子が向ったのは、4月26日と同じく、立命館大学全共闘が拠点としていた恒心館である。
恒心館

 午後1時過ぎから立命館大学広小路キャンパスで「全立命総決起集会」が開かれ、法闘委・文闘委・寮連合の約300人が参加した。
 立命館大学広小路キャンバスから向ったのは、京都市左京区吉田本町の京都大学本部キャンパスである。

立命館大学広小路キャンパスから京都大学本部京都大学本部から京阪四条駅

 午後2時から京都大学本部キャンパス時計台前で、京大全共闘とともに「全京都集会」が開かれ約800人が参加、デモ行進をしてから大阪へ向った。
 京阪・四条駅(現・祇園四条駅)─(京阪本線)─天満橋駅
京阪天満橋駅から大手前公園大手前公園
 午後6時から大阪市東区馬場町(現・中央区大阪城)の大手前公園(現・大阪城公園大手前芝生広場)で、「全関西全共闘総決起集会」が開かれ、立命館大学全共闘約400人を含む約3,800人が参加した。社会党・総評系の「沖縄返還安保廃棄大阪府民大会」に加わった形である。

御堂筋デモ 京都大学全共闘や大阪市立大学全共闘などがそれぞれ闘争報告を行い、立命館大学全共闘からは佐野議長があいさつに立って中川会館封鎖に始まる闘争の報告を行った。
 新左翼各派は多くを東京に動員したため前面に出ず、各大学全共闘がノンセクトの学生を吸収して大学ごとに集まった。
 「この日注目されたのは、紛争校のほとんどのセクトが「全共闘」という形で大学単位で参加したことだ。石やゲバ棒などの〝武器〟は一切なし」(「平穏裡に市民高揚」『朝日ジャーナル1969年5月11日号』(朝日新聞社、1969年))だった。大荒れで逮捕者多数を出した同日の東京とはかなり趣が違った。
 「大阪・大手前公園を埋めつくしたのは、2万人以上。大阪府下の加盟単産だけでなく地区、職場反戦、地区べ平連…と平和と反戦を旗じるしにする団体の旗はほとんど結集していたようにさえ見えた。それに京都、神戸、奈良県下の各大学、セクトの旗。集会は長い帯となって御堂筋に流れこみ、熱っぽい「沖縄返せ」のシュプレヒコールは2時間以上、御堂筋のいちょう並木にこだました」(「高らかに「沖縄返せ」─大阪の会場」『朝日新聞(大阪本社)1969年4月29日』(朝日新聞社、1969年))

 公園内をジグザグデモをした後、午後7時45分に出発。大手前公園─馬場町─(本町通)─本町四丁目(現・本町三丁目)─(御堂筋)─大阪府立体育会館前のルートでデモ行進した。
 デモには大手前公園を出た所から大阪府警察本部機動隊による並進規制(サンドイッチ規制)が行われたが、立命館大学全共闘の一団も他大学と同じようにフランスデモ・ジグザグデモを行った。
「18人が公安条例違反容疑などで逮捕されたが、混乱は比較的少なかった」(「沖縄デー─京阪神でも集会・デモ」『朝日新聞(大阪本社)1969年4月29日』(朝日新聞社、1969年))とされている。
 なお御堂筋は当時まだ南行一方通行にはなっていなかった。

御堂筋デモ参加の立命館大同級生「彼女からもらった1本のロングピース」

 高野悦子の日本史学専攻の同級生(1967年入学)でこのデモに参加したYさんと会って話を聞いた。

ロングピース Y:高野悦子は遅くなって来たけど、何回かデモで一緒だった。あのころのデモは〝フランスデモ〟とかおとなしかったが、「なかなかしんどいよ」と彼女に言ったことがある。
 4月28日の御堂筋デモだった。みんなで京都から京阪電車で行って、大阪城公園に最初集まってから御堂筋へ進んだ。大阪城公園で集まっていた時、自分がたばこを切らしてしまい、すぐ右後ろくらいにいた彼女からたばこをもらった。1本のロングピースだった。彼女もたばこを吸っていた。
 〝御堂筋突破〟のデモは自由に思うようにできて気持ち良かった。開放感があった。スクラムを組んでジグザグデモをやった。その際に「頭をカバーして腰を落とした方がいい」ってアドバイスをした覚えがある。彼女は「全共闘」か「日史闘」(日本史闘争委員会)のどちらかと思うがヘルメットをかぶっていたはずだ。

☞二十歳の原点序章1968年12月8日「とうとう前のタバコ屋でハイライトを買って来た」
☞1969年6月3日「なけなしの金で買ったショートピースの味はうまいのか」

 彼女とは1回生の時にプロゼミのクラスとフランス語が同じだった。一般教育科目で梅原猛先生の哲学、それに自然科学概論、人類学も一緒だったと思う。入学直後に開かれた清浄華院での新入生歓迎茶話会や天ヶ瀬ダムなどでの親睦会もいた。重なりは多かったし、彼女は「栃木出身」とか言って非常に印象深く存在感があった。“いる”と認識するだけよりはもう少し近かった。
 しかし1回生で分かれていく中で、早々に彼女は〝向こう〟の代々木系の連中と付き合い始めた。自分は反対側から彼女を“何人かのうちの一人”と見ることになり、サークルやグループあるいは勉強なりを一緒にということはなかった。ただ政治的な関係では、彼女が運営委員にも立候補したりして、注目したこともあった。

☞二十歳の原点序章1967年6月12日「今日は女子学生会の運営委員の選挙だ」
日本史専攻新入生歓迎茶話会
天ヶ瀬ダム
立命館大学文学部昭和42年度学修要項

バリケードでの再会 次がもう1969年4月下旬、恒心館バリケードでの再会だった。その前の2月か3月ごろから彼女について「違う所でやってる」「こっち側に来てる」といった話は出ていた。ただ僕の気持ちとしては恒心館の中でもうほとんどいきなり彼女を見て存在を意識した感じだった。
 4月下旬から5月上旬の段階で、恒心館のバリケードに常時いるのは2回生、4回生がほとんどで、日本史の3回生は少なくなっていて自分とMだけだった。同級生でも別の事件で逮捕されたり、来なくなってたりしていた。
 彼女は文闘委の部屋によく顔を出していた。4回生の亀井さんから「お前たち同じ学年だろう。もっと彼女と話をしなければ…」と言われた。もちろん「よう、よう」くらいの関係はあったので、割といろいろ話をしていた気がする。彼女が恒心館に来ない日があって「ホテルでアルバイトがあるから来れない」という話を聞いた覚えがある。ただ込み入った話をしたことはなかった。
 その前後に恒心館の教室の中で深夜にMとキャッチボールをして遊んでいたことがあった。教室は広くて机や椅子を片隅の方に並べていたので、がらんとした十分な距離のスペースがあった。そこに彼女がイヌの「ペソ」を連れて見に来た。あったバットを持って彼女はバッターボックスのような位置に立った。僕がボールを投げて彼女が軽く打つような感じだった。彼女は非常に楽しそうで印象的だった。

集会後話した文闘委・亀井さん「急に訪ねてきた彼女」
京都国際ホテル

 その時期のバリケードの中はもう、みんなそれぞれめちゃくちゃと言うか〝消耗〟していた。みんな一番きつい精神状態の時だった。
 高野は遅かった。もう少し早い2回生から3年生になる時に来ていたら面白いこともあったかもしれないし、あるいはさらに少し遅かったら楽な考え方もできたような気もする。僕たちに〝余裕〟があれば、違う雰囲気や世界もあったはずだ。
 そのあとも高野はまだしばらく頑張っていた。僕も京大は行った覚えがあるが、そのあと5月、6月くらいから一気にしんどくなってポシャってしまい、下宿を引き払って実家に帰った。だいたいみんなしんどくて散っていった。

京大Cバリ

 彼女が亡くなったのを知ったのは、自分が再び京都に戻ってきた6月下旬。河原町通の河原町三条あたりをウロウロしていた時、「高野が死んだぞ」。柴田から聞いた。亡くなって数日後だった。
 われわれも20歳か21歳のころで、ショックは非常に大きかった。自分も驚いたけど、ただ内心は少し何か違う…“意外”と“やっぱり”の中間くらいの受け止めもあった。あのころ例えば「死ぬ」とか「死」とかストイックに考える時期でもあるし、みんな相当追い詰められてて…学校がつぶれてるとか、行きたくても行けなくなっているとか。じゃあ〝家〟の方はとなるといろんな問題、やっぱり親兄弟の関係もある。学校を離脱したら今度はどこかに就職と言っても、就職も当てにならない。田舎から来た者は田舎を背負って…引くに引けない部分があった。
 あすが見えない、八方塞がりの時に、その裏表で〝死〟うんぬんがメンタル的にありうるわけで。だから私の場合、憧れでも何でもないが、“そこで死ねる人はいいなあ”という感じもあった。

☞1969年2月1日「柴田君が放り出され」

 いきさつを聞く機会があり、彼女のご家族が“いろんなことを知りたいので連絡してほしい”といった文章が当時あって、お母さん宛に手紙を出したことがあった。『二十歳の原点』の本が出たと聞き、買って読んだ。自分は登場していない。
 しかし長い間なかなか当時を話す気にならなかった。一応は立命に行ったものの中退したわけで、ましてや高野悦子のこともあった。昭和47年から49年の映画があったりもしたころ、職場に行って周囲から「あのころ立命にいたよね。この人を知ってる?」って聞かれても「知らないよ」。「見たことあるでしょ?」「たくさんいるから知らないよ」。そうしか言えなかった。
 みんなも抜けきれず、ずいぶん遅くまで尾を引いていた。自分もやっとここ数年になって少しずつ話せるようになれた。それでも彼女に関しては50年たった今も自分自身の整理がついていない。

映画『二十歳の原点』

 言ってみれば、地方から「立命」じゃなくて「日本史」の名前で行った。彼女もそうだし自分もそう。僕たちの半数以上はそうだった。具体的に何をやりたいかはとにかく、やっぱりそれなりに“「歴史」と関わりを持とう”と思って来て、一気にあの中に投げ飛ばされた。それが時代だった。(談)

御堂筋新橋交差点御堂筋難波
 高野悦子と同じ出身地でデモに参加した人は「1969年4月28日、戦慄の群人の中に居た横顔と後姿のあなただった。郷里に来てみればあなたのシルエットだけがなおも鮮烈に残っている…(中略)…。あなたの流れ髪に、あなたのぎこちない関西言葉に、あなたのたったたった一本の煙草に、あなたの眼鏡の内に、あなたの歩調と手の仕草に、あなたの誰も知ることのない笑み顔の中に、あなたの全思想を自からの肉体で帆を上げた」(「手紙(西那須野町。公務員)─高野悦子さんを囲んで」『那須文学第10号』(那須文学社、1971年)(※句読点を付した))と回想している。

京阪三条駅から恒心館 難波(なんば)駅─(大阪市営地下鉄1号線(現・御堂筋線))─淀屋橋駅─(京阪本線)─京阪・三条駅
 高野悦子は、このあと恒心館に戻り、そこに泊った。


 国家権力の徹底的なデモ規制、身動きとれぬそのデモの中にいる私のみじめさ。

 四・二八御堂筋デモでの大阪府警による並進規制(サンドイッチ規制)についてである。
機動隊員のつくる人がきの前をデモする反代々木系全学連ら

 文闘委の部屋のペットちゃんのニャロメ(猫)とペソ(犬)おまえもうねむっているかい。

 恒心館のバリケード内にいたイヌとネコである。とくにイヌは高野悦子になついていた。
 ニャロメは、マンガ雑誌『週刊少年サンデー』(小学館)に当時連載中の赤塚不二夫「もーれつア太郎」に登場するネコのキャラクター。
☞1969年1月20日「サンデーちゃんを読んでいたーんヨ」

 日本史専攻討論集会中に

 立命館大学では大学当局が新学期の授業再開のための一週間の暫定カリキュラムを作り、それに基づいて4月26日(土)から授業を行っていた。
 こうした授業再開に対して討論が行われていた。

1969年 4月30日(水)
 「ろくよう」にいるとき隣りの学生がいっていた。

☞1969年4月16日「居酒屋「ろくよう」で隣りに坐った学生風のあんちゃんに」
六曜社

 法政大に機動隊が入り、日ましに弾圧は強まっている。

 警視庁公安部が4月28日(月)午前5時、東京・千代田区の法政大学を凶器準備集合容疑で家宅捜索、機動隊員約500人が出動した。
 法政大学には前夜、中核派などの学生約400人が泊りこんでいたが、捜索を事前に察して学外に出ていた。
法政大学58年館5階857教室

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