高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 6月23日(月)

自殺当夜の真相

 高野悦子の日記は1969年6月22日(日)深夜が最後で、自殺当夜にあたる6月23日(月)の記述は見つかっていない。このため父・高野三郎は長く、高野悦子の最後の姿について事情を知る関係者と会うことを望んでいたとされる。

 関係者で高野悦子の姿を最後に見たのは、京都国際ホテル従業員(用度担当)の男性(当時20)である。
 この従業員の男性は高野悦子とそれほど親しかったわけではなかった。ただ労働組合の活動をしており、高野悦子が時折、組合の事務所や若手の集会に顔を出して話をする機会があったことから彼女と面識はあった。高野悦子が中村と仲が良かったことや、小山田と飲み歩いたりしている話も聞いていた。

 以下はこの元従業員(64)の証言による。高野三郎もこの元従業員と会い、同じ話を聞いている。

 取材は計4時間にわたって行い、本人とともに当時の見取図や資料と照らし合わせる形で、慎重な確認作業にあたった。さらに証言を裏付けるための現場取材も行った。元従業員の記憶は極めて鮮明だったが、それでもなお時の経過が大きいことから、記憶違い等が含まれている可能性があることをおことわりする。
 “高野悦子「二十歳の原点」に関する事実を現在と後世の読者に正確に伝える”という本ホームページの趣旨を認めていただき、取材に協力をいただいた元従業員に厚く感謝する。
京都国際ホテル

グリル「アラスカ」で
 元従業員:1969年6月23日のことを、私は今もはっきりと覚えている。忘れることは一生ないだろう。

 あの夜、私は京都国際ホテルでの仕事のあと組合関係の作業も終え、帰り道のレストランで遅い夕食を一人で取ることにした。

アラスカ
アラスカ周辺図アラスカ拡大図
 入った店は、京都市中京区丸太町通油小路東入ルにあったグリル・喫茶、アラスカ。
 夫婦経営の、しゃれた音楽が流れている店で、たまに利用していた。

 アラスカはステーキが看板メニューだが、給料日前なので、この時は安いスパゲティを注文。ほどなくして料理が出てきた。
 本来深夜営業の店であるが、他に客がいなかったこともあり、店じまいをするために外のライトが消された。

 出てきたスパゲティを半分くらい食べ終えたころだろうか。なにげなく窓から店の外を見ると、丸太町通に立っている女の子の姿が目に入った。

 高野さんじゃないか。いつものラフな私服姿と違ってワンピースを着ている。しかし高野さんに間違いない。
 うつろな様子で立って外からこっちを見ている。
アラスカ広告アラスカ跡
 どうも変だ。彼女は酒にでも酔っているのだろうか。そう言えば、小山田や中村がいっしょに酒を飲んだ話を聞いたことがあるし…。

 外は弱い雨で彼女はぬれた様子だったので
(※)、私は店から出て、「どうしたの」と彼女に声をかけた。
 彼女は何も言わなかった。

 とりあえず肩を貸して彼女を店内に入れ、店のテーブル席に座らせた。店の奥さんがもってきたタオルで拭いてあげた。
 彼女は何も言わなかった。

 「何かもらおうか」。私は彼女に言った。
 しかし彼女はテーブルに顔を伏せて、だまったままだった。いろいろと話しかけてみたが、やはり何も言わなかった。
 しかたなしに水をもらうことにした。

 それから少したって、彼女が突然、顔を上げた。
 そして彼女の口をついて出てきた言葉に、私は一瞬、耳を疑った。

 ※当日の京都地方気象台の記録では雨は観測されていない。
 アラスカは現存せず、不動産会社の店舗になっている。
母と買い物(ワンピース)

「死にたい」
 元従業員:「○○(私の名字)さん、死を考えたことある?」。彼女は言った。

 私は驚き、とまどった。何とか取り繕おうと、「そんな、まだ20歳だし。今、目の前にやることあるし…」と答えた。
 必死に思いめぐらせたが、自分と高野さんとの接点は学生運動と労働運動くらいしかない。“学生でバイトしている立場で何を言ってるのか”という複雑な感情も交じった。

 私は「あなたも立命館の闘争があるし、アスパックは終ったけど今度は70年安保があるじゃない。闘争をやってその中で死ぬようなことはもしかしたらあるかもしれないけど、自分から死にたいと思ったことなんかない」と説くように話し続けた。
 しかし彼女は何も言わず、再びテーブルに伏せたままだった。

 それから、かなり時がたったように感じた。

 彼女は伏せたまま、かれるような小さな声でつぶやいた。
 「死にたい」。
 少したって、彼女はもう一度つぶやいた。
 「死にたい」。

 “これは酒に酔ってるな。相手にしていても…”と思った。
 その時ちょうど、店の人がそろそろ店を閉める作業に入っているのがわかった。
 私は、何とかしなければいけないという気持になった。

☞1969年6月9日「アスパック粉砕京都統一行動」

丸太町通・新町通
 元従業員:私は気を利かせて、まずグリル「アラスカ」にあった店の電話で(京都国際ホテル)男子寮へ電話することにした。
 
 受話器の向こうには寮の管理人が出た。
 私が「中村、小山田はいませんか」と聞いたら、管理人の答えは「帰ってない」。
 私は彼女に「寮にはいないよ」と伝えた。
 しかし彼女は何も言わなかった。
 
 しばらく沈黙が続いた。

 そして彼女は伏せたまま言った。
 「連れてって」。

 どうしようか。私は、彼女をタクシーで送ってから、自分は寮に帰ることも考えたが、ポケットの所持金が少なかったので迷った。
 とりあえず彼女を男子寮までは連れていかないとしかたないと思った。
 
 彼女を連れて、グリル「アラスカ」を出た。男子寮に向かって、深夜の丸太町通を東へ。
アラスカから男子寮丸太町町通
 府庁前の交差点。そして新町通を北へ歩いた。
府庁前新町通
 途中、彼女が寄りかかってきたので、肩を抱き支えたり、引きずったりした。
 彼女が履いていた、かかとの高い靴が脱げたりもした。

 新町通で通りがかった寮の先輩に好奇な目で見られた。
 寮にたどり着くまでの時間は、とても長く感じた。

中村・京都国際ホテル男子寮
☞1969年5月12日「小山田君」

最後の姿
 元従業員:やっとのことで男子寮の前に着いた。
地図京都国際ホテル男子寮空撮
 彼女をひとまず寮の表に腰かけさせた。
高野悦子が腰かけたとみられる場所
 私は寮に入って、中村たちがいるかどうか確かめた。
 やはり寮の管理人は「帰ってない」と答えた。
 私は寮の表に出て、彼女に言った。「中村さん、いない」。

 しかし彼女は何も言わず、うなだれているだけだった。

 私は彼女の状態が少しはマシになっているだろうと思い、送ることにした。
 寮からタクシーを拾いに下立売通まで行った。
 まもなくタクシーが来たので、それに彼女を乗せた。

 そして車が南の丸太町通の方に向って走っていくのを見送った。

 これが私が見た高野さんの最後の姿だった。
 午前0時すぎのことだっただろうか。

 あれから44年たった。
 「もしあの時に違う対応をしていたら、彼女のその後は変っていたかもしれない」。
 今も時々頭をよぎる。(談)


 元従業員は、6月24日(火)午後4時30分ごろ、京都国際ホテルのオフィスで京都新聞夕刊社会面に掲載された「娘さん、線路で自殺」の記事を見つけ、「薄茶にたまご色のワンピース」に“もしかしたら”と思い、すぐに京都府西陣警察署(現・上京警察署)に駆け付け、身元確認に協力した。
高野悦子の自殺

 インタビューは2013年3月10日に行った。

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