高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和48年)

映画『二十歳の原点』

 原作(新潮社版単行本)は大森健次郎(1933-2006)監督、角ゆり子(1951-)主演、東京映画(現・東宝)製作で映画化され、1973年10月27日東宝系で公開された。89分。
 東京では千代田劇場(日比谷、現・シアタークリエ)、渋谷東宝(現・TOHOシネマズ渋谷)、新宿コマ東宝などで封切り上映された。京都では京都市中京区河原町通六角角の京都宝塚劇場で、宇都宮では栃木県宇都宮市池上町の宇都宮第一東宝で封切りされている。
 熊井啓監督、仲代達矢・関根恵子(現・高橋惠子)・北大路欣也出演の映画『朝やけの詩』と2本立てだった。


解説

 全国大学生のベストセラー、青春のバイブルと云われる人気小説(高野悦子著・新潮社版)の映画化。「虚飾につつまれた現代の繁栄の中に生きる若者たちのために…」と大森健次郎監督は第1回作品に意欲を燃やしています。
 脚本は重森孝子と森谷司郎監督の共同執筆。原作者である高野悦子役には新人の角ゆり子が抜擢され、映画初出演に体当り。
 若いスタッフ。若い俳優たちが、彼らの無限のエネルギーと知恵をぶつけて製作する青春文芸大作です。
 製作は金子正且。東京映画製作。東宝配給。カラー作品。スタンダード。

スタッフ

映画の広告 製作…金子正且
 企画…小林八郎
 原作…高野悦子(新潮社版)
 脚本…重森孝子 森谷司郎
 監督…大森健次郎

 撮影…中井朝一 美術…樋口幸男 録音…原島俊男 照明…羽田昭三 音楽…小野崎孝輔 整音…西尾曻 編集…山地早智子 監督助手…松沢一男 製作担当者…内山甲子郎 製作宣伝…鹿野英男

 大森健次郎監督
 1933年11月3日中国・青島生まれ
 1957年 3月東大経済学部卒
 1957年 4月東宝入社
 主な助監督作品…天国と地獄、赤ひげ、どですかでん、潮騒、首、二人の恋人、初めての旅
 「この作品に対する彼の言葉─「真剣に、真面目に一瞬一瞬を生きてきた高野悦子さんの青春には強い感動を覚えた。その青春は短い。駆け去ったという感じだ。僕は彼女の鎮魂歌としてこの作品を撮りたい」」(「監督・大森健次郎」『二十歳の原点』パンフレット(東宝、1973年))

映画「二十歳の原点」企画案 スタッフ等の異動
 当初の企画では「脚本…重森孝子」「監督…森谷司郎」(『[企画案]二十歳の原点』(東宝、1973年))となっていたが、1973年3月の台本準備段階で監督の森谷司郎(1931-1984)が脚本にも加わる形となった(『二十歳の原点①検討稿』台本(東宝映画、1973年)参考)
 さらに1973年8月の台本決定段階までに森谷に代わって大森健次郎が監督を務めることになった(『二十歳の原点③決定稿』台本(東京映画、1973年)参考)。また製作も東宝映画から同じ東宝グループの東京映画に変更された。
 大森は、森谷監督作品の映画『「されどわれらが日々より」別れの詩』(東宝、1971年)や『潮騒』(東宝、1971年)でチーフ助監督を務めており、実質的には監督を引き継いだ形である。一方で森谷は1973年12月29日公開の正月映画『日本沈没』(東宝、1973年)の監督にあたっている。
 なお撮影・中井朝一(1901-1988)や技術・美術スタッフに大きな異動はなかった。

キャスト

映画の看板 高野悦子(20)立命館大3年…角ゆり子(新人)
 高野昌彦(父)…鈴木瑞穂 高野妙子(母)…福田妙子 高野芳子(姉)…高林由紀子 高野昌男(弟)…丹波義隆
 渡辺(立命大生)…大門正明
 鈴木(国際ホテル・食堂主任)…地井武男
 中村(京大生)…富川澈夫 牧野(悦子の友人)…川島育恵 松田(悦子の友人)…津田京子 下宿の小母さん…京千英子 「ろくよう」のマスター…北浦昭義 国際ホテルのウェイトレスA…渡辺ふみ子 国際ホテルのウェイトレスB…八木啓子 国際ホテルの外人客…モーデン・ティム 眼鏡屋の女店員…三戸悦子

 角ゆり子
 1951年 5月7日東京都目黒区生まれ、姉弟の長女
 1970年 9月SOSモデルスクール入学
 1970年11月SOSアーティスト所属、演技、モダンダンス、日舞、殺陣、歌のレッスンを続ける
 1972年 3月東京女学館短期大学卒業
 ファッションモデルとして活躍、テレビドラマには出演していたが、「映画は今度が初めて、しかも全篇出づっぱりの大主役で本人は無我夢中だったというけれど、撮影現場では意外と淡々と落着いていて大物新人の風格があった」「「20歳の原点」では天神踏切りの場面を撮る前の晩は眠れなかったという。製作者、監督から“存在感がある”という理由で悦子役に選ばれた」(「新人女優・角ゆり子」『二十歳の原点』パンフレット(東宝、1973年))
 「「全力できる作品にぶつかり、しあわせです。主人公は青春をかけて懸命に生きた。自分を孤独な人間と考えているようですが、そういった点は私に共通している。精いっぱいやります」と、役づくりに懸命だ」(「東京映画・二十歳の原点、京都でロケ」『京都新聞昭和48年8月30日(夕刊)』(京都新聞社、1973年))。「「今度の映画に出るんで、東宝の人に当時のニュース映画を見せてもらったんです。びっくりしました。戦争みたいですね」」(「「二十歳の原点」でデビュー、モデル出身の角ゆり子」『朝日新聞1973年9月11日(夕刊)』(朝日新聞社、1973年))

ロケ地

 ロケは京都市、東京都内、山梨県などで行われた。このうち京都でのロケは1973年8月下旬に9日間行われている。京都でのロケ終了後は東京に帰り撮影を続行し、9月中にクランク・アップするスケジュールで進められた。
 角ゆり子が登場するシーンの主なロケ地は以下の通りである。各シーンでのセリフの一部も紹介する。
 ※同じロケ地が繰り返し登場する場合は、最初に登場したシーンだけ取り上げる。

〇高野家の中
 東京・世田谷区成城の個人宅。悦子(角ゆり子)を含め家族5人の新年の家庭を描いている。庭を冬の季節感にしている。
 悦子「メガネをかけた方が私らしいんじゃないかな晴着なんかより…そうだ二十歳の記念にメガネをかけよう」

〇新幹線の中
 京都市下京区河原町通八条上ル西之町付近を走る国鉄(現・JR東海)・東海道新幹線下り普通車。
新幹線の中の位置新幹線車内から見える西光寺
 車内窓から北側に西光寺が見えるカットがある。
新幹線の中と駅表の位置関係空撮
 新幹線の窓は現在より横幅が広かった。ロケは夏に行ったが、設定は1月のため山などを背景に入れていない。

〇京都駅・表
 悦子が駅から出るのは京都市下京区烏丸通塩小路下ル東塩小路町の国鉄(現・JR西日本)・京都駅西口。付近には国鉄バスとタクシー乗り場があった。
当時の駅西口地図当時の駅西口跡
 京都駅の駅ビルは建て替えられ、現在は京都駅前地下街ポルタの入り口になっている。

〇下宿
 窓の外の光景は京都市上京区東三本木通丸太町上ル南町付近から見た丸太町橋。設定は冬のため造作が必要だった。
橋を見る方向地図現在の橋
 丸太町橋を通る京都市電丸太町線は1976年に廃止され、橋は1991年に架け替えられた。
 悦子「私ハ慣ラサレル人間デハナク、創造スル人間ニナリタイ」

 セットを使った撮影は全て東京・世田谷区成城一丁目および砧七丁目の東宝スタジオで行われた。
東宝スタジオ地図現在の東宝スタジオ
 東宝スタジオの各スタジオ等は大幅に変っている。

〇大学前・喫茶店
 東京・練馬区小竹町一丁目の喫茶店「ジロー」。悦子と牧野(川島育恵)と会話シーンの撮影は2階で行われた。
喫茶店ジロー地図喫茶店ジロー跡
 日本大学芸術学部の関係者にとっては知られた喫茶店だった。建物は現存せず、店舗兼マンションになっている。
 牧野「悦子、あの様子じゃ、試験延期よ」

〇立命館大学構内
 東京・練馬区旭丘二丁目の日本大学芸術学部江古田校舎。ジローからキャンパス正門が見えた。
ジロー跡から見た日大芸術学部日大芸術学部空撮1975年
 キャンパスの建物などが入ったシーンは主に日本大学芸術学部である。エキストラは150人。敷地中央部に南北にあった前庭・中庭などで撮影された。校舎は全て建て替えられ、当時の正門の位置には現在、北門がある。
 渡辺「学友諸君、我々は…」
 映画中に登場する立命館大学広小路キャンパスの実景は大学側と関係なく撮影されたものである。撮影依頼を大学側が断ったとされる。

〇四条通り
 古い傘屋は京都市東山区大和大路通末吉町通下ル末吉町の傘店「辻倉商店」。店先の通りは繩手通とも呼ばれる。
傘店の地図傘店跡
 閉業したが、建物は現存する。

〇教室
 悦子が一人で立つガランとした教室の室内の様子は東京・世田谷区世田谷三丁目の青葉学園短期大学(現・東京医療保健大学)内で撮影された。
青葉学園短期大学地図東京医療保健大学
 悦子「一年前ノココデ行ワレタ哲学ノ講義ハ何ダツタノカ」

〇レストラン
 レストランは京都市下京区四条通西石垣東入ル斎藤町の中華料理店「東華菜館」(現・東華菜館本店)(地図上「四条通り」参考)。ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880-1964)設計で1926年に完成した建物に入る店は現存している。ロケは4階東北の鴨川に面した窓側で行われた。
東華菜館本店南座
 眼鏡をかけた高野悦子が牧野と食事をするシーンで窓ガラス越しに特徴的な南座の建物の上部が見える。
 悦子「何も、機動隊とやり合うことだけが戦いじゃないわ」

〇二条城広場
 自転車に乗ってはしゃぎまわるのは京都市中京区二条通堀川西入ル二条城町の二条城前広場(元離宮二条城東大手門前広場)。
自転車ではしゃぐ広場地図自転車ではしゃぐ広場
 背景に国の重要文化財・二条城東南隅櫓の一部が見える。広場南側で当時は観光バス駐車場があった。
 悦子「イツノ日カ、渡辺ト一緒ニ、コノ自転車ニ乗ルコトガ出来ルダロウカ」
二条城

〇京都国際ホテル・食堂
 高野悦子が実際にアルバイトをしていたホテル2階のメイン・ダイニング。鈴木(地井武男)が登場する場面。
 このほか京都国際ホテル内部ではメイン・ダイニング厨房、宴会場(平安の間)など様々な施設の当時の様子が映っていて、『二十歳の原点』読者にとって参考になる。
 外国人「I guess you're around 15. Am I guessing right?」
 悦子「えっ…。あっ、うふふ、うふふ」
京都国際ホテル

〇居酒屋「ろくよう」
 鈴木と悦子が会うのは東京・新宿区三光町(現・新宿五丁目)のスナック「モッサン」。
三光町にあったモッサン地図モッサン跡
 現在は飲食店になっている。「モッサン」という名称のバーは東京・新宿区三光町(現・歌舞伎町一丁目)の新宿ゴールデン街にもあり、そこには文化人も出入りしていたという。
 鈴木「どうしたんだ、こんな所で…」
 悦子「ホテルで聞いてきたんです」

〇京大正門前通り
 鈴木と悦子が歌いながら歩くのは京都市左京区吉田二本松町および吉田本町の東一条通。
吉田神社参道の地図吉田神社参道
 バックに吉田神社参道の赤い鳥居が見える。鳥居前の路上のゼブラゾーンは当時なかった。
 シーンはその後、京都大学本部の正門とライトアップされた大学本部時計台(現・百周年時計台記念館)に切り替わる。
大学本部正門夕方の時計台
 鈴木「俺はね、これに火をつけてやろうと本気で考えたことがあった」

〇銀閣寺参道
 鈴木が悦子を送った新しい下宿は京都市上京区一条通室町西入ル東日野殿町。
一条通室町西入ルの地図下宿まで送ったシーンのロケ地
 京都日本語学校(現・京都日本語教育センター京都日本語学校)の建物が新しい下宿に設定された。建物は現存しない。
 悦子「もうここで結構です」

〇本屋
 四条通の書店「海南堂」。バックの店外に四条通南側のアーケードが写り込んでいる。悦子が買ったのはカール・マルクス著フリードリヒ・エンゲルス編向坂逸郎訳『マルクス資本論第一巻』(岩波書店、1967年)。900円。
河原町通の書店

〇疎水の流れ
 京都市東山区白川筋三条下ル梅宮町。悦子の乗った自転車が駆け抜けるのは白川沿いの道である。
白川筋地図自転車で駆け抜けた白川沿い
 このあたりは現在もドラマのロケがよく行われる。

〇国際ホテル・前
〇同・裏口
〇同・従業員控室
 京都国際ホテルの油小路通沿いで、南側から高野悦子が自転車で通って入るシーンは梶井宮門、裏口でウエイトレスの京子(渡辺ふみ子)と会話するシーンは従業員入り口前。
 悦子「あら、今日は早番」
 京子「うん、ええとこで会うたわ、あんたにちょっと聴きたいことがあるねんけど」
梶井宮門従業員入り口跡
 従業員控室で鈴木と会話するシーンはホテル地下2階。いずれもロケをしてもホテルの営業に直接支障がない場所である。現在はホテル「HOTEL THE MITSUI KYOTO」の一部になっている。
 鈴木「元気になったかね、坊や」
 悦子「坊やはやめて下さい。これでもセットしたんです」
従業員食堂

〇新宿
 高野悦子が雑踏の中で女の子とぶつかるのは東京・新宿区西新宿一丁目の青梅街道の歩道。
青梅街道地図青梅街道歩道
 やや遠くにある新宿大ガードを国鉄(現・JR東日本)中央・総武緩行線下りの黄色い電車が走っているのが見える。
 悦子「モウ、可愛イコチャンノ演技ハ私ニハ出来ナイ」

〇夜明け
 川の浅瀬に立つシーンは京都市上京区出町通今出川上ル東入ル青龍町の賀茂川右岸。
賀茂川右岸の地図賀茂川右岸
 東山の日の出のカットを入れ込むため、ロケは午前5時に開始された。ただこのシーンでは高野悦子が川面を歩くものの周辺の様子は見えない。
 悦子「家族トノ訣別、孤独トノ戦イ、未熟デアルコトの認識、……エヘヘ」

〇二条城広場
 中村(富川澈夫)と悦子が自転車に乗って動き出すのは京都市中京区押小路通東堀川東入ル土橋町の押小路通。
押小路通の地図押小路通
 堀川通をはさんで二条城前広場の東側にあたる。ANAクラウンプラザホテル京都の前身である二条観光ホテルが見えている。
 悦子「サイクリングに行きましょうか」

〇嵐山
 自転車で中村の後ろに高野悦子が乗って走るのは渡月橋。桂川右岸の京都市右京区嵯峨中ノ島町から撮影している。
走った橋の地図走った橋
 渡月橋を北から南へ渡っている様子である。
 悦子「恋愛カラノ訣別、鈴木ガナンダ、仕事ヲヤルダケノ機械人間」
渡月橋

 川のそばを2人の自転車が走るのは京都市右京区(現・西京区)嵐山元録山町の大堰川右岸を通る歩道。
大堰川右岸地図大堰川右岸の歩道
 悦子「全ては夢であり、幻想である。現実などありはしない」
山陰線のトンネル付近の岩

〇御所
 中村と悦子が芝生に寝転んだりしゃがんだりして話すのは京都市左京区下鴨宮河町の鴨川公園、通称「鴨川デルタ」。
鴨川デルタ地図鴨川公園と出町橋
 最初のカットでは背景に出町橋が入っている。当時は京都市電今出川線が走っていた。次のカットでは高野川左岸の土手が後ろに見えている。
鴨川デルタ
 現地で撮影に適した場所として探し出したロケ地となっている。
 悦子「現在の大学は破壊されるべきだと思うし、その為には授業料を払わず、試験も受けず、学問の切り売りを拒否することだと私は思うの」

〇闘争の中の悦子
 民青との対決で殴られるシーンは大学内の設定だが、東京・世田谷区の東宝スタジオの屋外で撮影されている。

〇京極通り
 商店街を悦子が頭に包帯を巻いてジーンズ姿で歩くのは京都市中京区錦小路通新京極西入ル中之町の錦小路通。
錦小路通地図錦小路通
 錦天満宮側から撮影している。繁華街の実景としてオープニングにも登場する。

〇雨の中
 悦子が公衆電話で話しているのは京都市下京区五条通河原町東入ル御影堂前町にあった電話ボックス。
五条通地図雨の中の公衆電話のシーン
 電話ボックスはA型ボックスで、電話機は大型青公衆電話機。西側から撮影している。バックの道路は五条通の五条大橋付近である。雨は降っていない。
 現在も付近に公衆電話があり、C型ボックスで新型ディジタル公衆電話機になっている。ボックスの扉は東側になった。
 悦子「あの…中村さん」

〇キャンパスの紛争
 機動隊と学生が激しくぶつかるシーンは東宝スタジオの屋外。バックに撮影用ステージの建物が見える。

〇悦子の幻想
 ネオン街を連れ立って歩くのは東京・新宿区歌舞伎町(現・歌舞伎町一丁目)の通り、通称「えび通り」。
歌舞伎町えび通り地図歌舞伎町えび通り
 この付近では、通り南側の当時パチンコ店「パチンコアサヒ会館」を前身とする「エスパス日拓西武新宿駅前店」がビルで営業を続けているほか、当時とんかつ店だった「あそう」が大衆割烹として残っている。
 悦子「私の醜さと美しさ、あらゆるものをアルコールで溶かし去り」
 この通りが「えび通り」と呼ばれるのは後になってからである。

〇太い杉の木立ち(幻想)
 悦子が入っていく大木の木立ちは山梨県河口湖町(現・富士河口湖町)河口の河口浅間神社。境内には参道のスギ・ヒノキ11本、社殿近くの「七本杉」のほかモミやトチの巨木が並んでいる。
河口浅間神社地図河口浅間神社
 「境内はうっそうとした杉の大木に囲まれているが、わけても社殿の前から南方にかけての七本杉は、根回り9.6メートルから30メートル、目通り6.82メートルから8.65メートルという大きなものである。樹齢は1000年を超すといわれるが樹勢も盛んで、風損もうけていない」(「河口浅間神社」『やまなし史跡めぐり』(山梨日日新聞社、1978年))
 悦子「独占の機械工場で作られた、近代社会のにおいのする、その煙を」

〇湖(幻想)
〇夜の湖(幻想)
 幻想の湖のシーンは山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)本栖にあった全国モーターボート競走会連合会(現・日本モーターボート競走会)本栖厚生施設水上スポーツセンター先の本栖湖湖岸。
本栖湖湖岸地図本栖湖湖岸
 岸辺に立つシーンは午後3時から、夜の湖は午後6時からロケが行われた。夕日が沈んでいく実景もこの付近からの撮影。本栖厚生施設水上スポーツセンターは現在、本栖湖スポーツセンターとして民間で運営されている。
 悦子「原始林を暗やみが包みこむ頃になったら、湖に小舟を浮べよう」

〇サウンドトラック・PR用写真
 東京・世田谷区成城六丁目の成城大学正門前イチョウ並木。写真下の点線部分がサウンドトラックのジャケット表面の範囲である。成城大学正門に最も近い側にあった木が切られ、ジャケット写真右端に立つ黒いシルエットの木が植え替えられている。
成城大学正門前イチョウ並木地図成城大学正門前イチョウ並木のロケ地
 角ゆり子が左手に持っている本や辞書のうち、表紙が見えているのは米Grolier社の学習用図書“Home and School Study Guide to The Book of Knowledge”。右側の住宅の塀の下部にある石積みはPR用写真に写っていて、当時のまま残っている。
 この付近は写真撮影だけ行われ、映画には登場しなかった。
サウンドトラック

物語

映画台本検討稿 昭和44年6月24日付「京都新聞」夕刊に〝娘さん、線路で自殺〟の記事。
─24日、午前2時36分ごろ、京都市中京区西ノ京平町、国鉄山陰線、天神踏切西方20㍍で、上り貨物列車に線路上を歩いていた若い女が飛び込み即死した。自殺らしい。西陣署で調べているが、女は15~22才、身長1.45㍍でオカッパ頭、面長のやせ型、薄茶にたまご色のワンピースを着ており、身元不明─。
 自殺した若い女性は高野悦子さん。20才で、立命館大学文学部史学科の3年だった。遺書はなく、大学ノートに10数冊の横書きの日記が遺された。

 1月2日、悦子は郷里の宇都宮で20才の誕生日を迎えた。母親が作った成人式の晴着も、何となく、おしきせがましく感じ、イライラした毎日を過す。三カ日を過ぎて間もなく、悦子は京都の下宿に戻ってきた。時を同じくして悦子の親友でもあり、学生闘争の闘士、牧野も京都に帰って来ていた。
 その頃、東大、京大と学園紛争は連鎖反応的に日本全国に拡がり、悦子の立命館大学にも紛争の波は押しよせていた。バリケード、機動隊、赤ハタ…。機動隊の棍棒で殴られ眉間から血を流しながら連行された、渡辺委員長の美しい顔を目前に見て、悦子は「何カヲシナケレバ…デモ何ヲシタライイノダロウ」と思う。
 下宿でタバコを吸う悦子。20才の記念にメガネを買う悦子。本当の自分をかくし、メガネをかけた自分の存在の滑稽さを演じている意識を楽しむ。
 カミソリで指先を切る悦子。自分にも赤い血が流れている。でも、一人で何が出来るのか。両手を出して、飛び込んでいける恋人が欲しい。

 ある日、迷いの中から、悦子は目覚めた。学生闘争から坐折していった牧野ら友人。目の前で逮捕された時の渡辺の目。荒れ果てた教室の中で、悦子が見たものは、自分自身の姿であり、戦う相手が自分であるということだった。
 長い髪の毛を切り、友がいなくなった下宿を出て、ホテルでウェイトレスのアルバイトをする決心をした。一日働いて疲れ果てて、宴会場にあるグランド・ピアノの前に坐るときだけが、悦子が以前の素直な悦子でいられる時である。
 下宿に帰ると突然来訪した父が待っていた。授業料を下宿探しに使った事、髪を短くカットした事を責められた。父を送っての帰途、深夜の河原町通りを歩く悦子は淋しかった。その夜、スナック〝ろくよう〟ではじめてお酒を飲んだ。そこのマスターは、アルバイト先きの鈴木主任と同級生であった。彼との会話の中に自分が鈴木に恋をしていることを意識した。

 悦子は学校への、親へのささやかな自分自身の抵抗として、試験を放棄、授業料の不払いを決意する。
 お酒の楽しさ、自分は独りであることの確認。
 鈴木への激しい想い。

 4月、新入生を迎えて、大学のキャンパスは正に平和そのものである。その中に立ちつくしている悦子。
 「コレハ、イッタイドウイウコトナノダ。アレカラ3カ月モタタナイノニ、コノ平和ナ姿ハ。ニセモノノ平和、アノ渡辺ノ残シテイッタモノハ、ドコヘ行ッテシマッタノカ。ニセモノノ平和ニハ負ケナイ」
 悦子は、自分独りでも戦おうと思った。授業料不払いという形での両親との訣別、孤独との戦い、未熟であることの認識…。
 メーデーの日、偽りの平和に甘んじる人々の表情を見て悦子は絶望した。この日、鈴木への激しい思慕を胸に抱きながら、バイト先の京大生中村とデイトをした。
 酒、タバコ、中村との生活、遠くなってしまった家族との対話、学生闘争への没入…。 しかし、悦子は、空っぽの満足の空間にさまよう。
 すべての奴を忘却し、どんな人間にも、悦子の深部に立ち入らせてはならないと思う。沈黙あるのみ。でも淋しい。
 暗い夜だけが、悦子のただ一人の友となる。酒、睡眠薬。
 悦子は永遠の旅に出る―。
 映画紹介は広報宣伝用資料(東宝、1973年)によった。

映画への見方

試写会案内状宛名試写会案内状裏面 脚本の重森孝子は「御両親は“あと数ヶ月も保ちこたえてくれたら”と、今は跡形もなくなった大学の騒乱を前に口惜しがっておられます。それは、親として当然のことです。しかし、ここであなたの味方をするなら、人間が創造する動物であると発見した時、すでに数ヶ月先の事も見えていたことでしょう。その平和な世の中に生きていくことがいかにつまらないことか分ってしまったのかも知れません」(重森孝子「死に急いだあなたへ」『二十歳の原点』パンフレット(東宝、1973年))としながら、「女の自殺なんて、つきつめれば何かへの〝あてつけ〟か、偶然の事故が重なったものとしか考えられない。論理的に自殺するのもやはり男のわがままの一つだろうと思う。こんな考え方ではとうてい、〝二十歳の原点〟なる日記も、死を賛美する風には描けなかった。ただ生きたい生きたいと願いながら、ずうずうしくなれなかった女として描いてみるより方法がなかった」(重森孝子「終末論と女達」『シナリオ昭和48年12月号』(シナリオ作家協会、1973年))と振り返っている。

 東宝は当時、この映画について「青春文芸大作と一言でいえる東宝らしい作品であり、これからも東宝路線の基幹となる作品系列のものです」としていた。
映画二十歳の原点パンフレット このため「不安と挫折と絶望の青春を綴った作品、清新さというものがまず第一に求められる題材だ。監督昇進第1回、大森健次郎が起用されたのもそのゆえによるものと思われる。脚本も「俺たちの荒野」の重森孝子「放課後」の森谷司郎と、若い世代を描くにふさわしいと思われる人を使い、新しい東宝青春路線の魅力を狙ったことがうかがわれる」「生きた現代映画にするものは、その悲劇の底に黒々とわだかまるものの実体をはっきりと見ていなければならない。すくなくともその眼を持たなければならない筈だ。その眼の冷たいたしかさだけがこの作品の救いであり、又見るものにこの映画を見た甲斐を感じさせるものではないだろうか」(猪俣勝人「二十歳の原点」『日本映画名作全史─現代編』現代教養文庫(社会思想社、1975年))と評された。
 ただ「学園闘争は70年代初頭の青春映画の背景として強く意識された題材だったが、その敗北と感傷的な死を綴った本作をもって、東宝青春映画もひとつの終息点を迎える。映画界は大作主義に陥り確たる会社カラーを保った小品ドラマが成立し難い状況となり、73年に山口百恵が映画デビューを飾って、かろうじてアイドル映画が明朗青春映画を継承するばかりであった」(山下慧「1966年~1973年東宝青春映画作品紹介」『東宝青春映画のきらめき』(キネマ旬報社、2012年))と位置付けられている。

 母・高野アイは『二十歳の原点』の本は読んでいないが、この映画は見ている。周辺には「そっと人に隠れて行きました。日記とは内容が違っているようです」と話していたという。
母・高野アイさんと会って

サウンドトラック

 映画のサウンドトラック『ある青春/二十歳の原点』は、四人囃子音楽・歌唱、四人囃子/アンサンブル・ブーケ演奏、角ゆり子語りで1973年10月25日に東宝芸音(現・東宝)からレコード発売された。レコード・スタッフとして原作・高野悦子、構成・重森孝子も名を連ねている。

 収録曲
四人囃子アルバム・二十歳の原点[A面]
 二十歳の原点のテーマ 今朝は20歳 学園闘争 あなたはわたし 何が違う 涙の年令
[B面]
 青春 夜(Ⅰ) 夜(Ⅱ) ? 四人囃子から高野悦子さん江

 収録曲のうち「青春」は作詞・岡田冨美子、「夜(Ⅰ)」、「夜(Ⅱ)」は作詞・コンフィデンスとなっている。
 コンフィデンスはフォークグループで、人気ロックバンド・THE ALFEE(ジ・アルフィー)の前身である。コンフィデンスは1972年、メンバーがまだ高校在学中に『昼下がりの夢』(東宝芸音)でデビュー。1973年、映画『二十歳の原点』の音楽制作を東宝から依頼された。
 「「あのさぁ、今、オレたち『二十歳の原点』ていう映画のレコード作らないかって話きてるんだけど、よかったら、お前も一緒にやんない?」
 「自分たちで歌作るの? ふうん、面白そうだけど……」
 こうして、『二十歳の原点』の映画音楽制作をきっかけに、いつの間にか高見沢も、コンフィデンスにサポートという形で加わっていた」(小野緑「LONG DOCUMENT STORY(EARLY ALFEE)」『THE ALFEE BOOK:LONG WAY TO FREEDOM Vol.1』(CBS・ソニー出版、1987年))
 映画に向けてコンフィデンスが制作した曲は詞の方だけ採用され、「夜(Ⅰ)」、「夜(Ⅱ)」が生まれた。詞を書いたのは高見沢俊彦(1954-)で、このあとメンバーとなるグループ、ALFIE(現・THE ALFEE)が1974年にデビューする。
 このため「夜(Ⅰ)」、「夜(Ⅱ)」は、THE ALFEEにとってメモリアルな作品に位置付けられている。
 高見沢俊彦は自身初めてとなる小説「音叉」で、1970年代を舞台にプロデビューを目指すバンドの若者を描いた。その中で主人公の若者が彼女から「ねえ、高野悦子の『二十歳の原点』って読んだことある?」「その本にね。『「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である』という文があってね、今の私の心境にピッタリだと思って」(髙見澤俊彦「音叉」『オール讀物平成29年11月号』(文芸春秋、2017年))と聞かれる場面が登場する。

 映画プロデューサーの金子正且は「映画化の作業に着手した瞬間から、彼女の手でノートに書かれた文字のことごとくは、映画「二十歳の原点」という作品をみた可虚構の世界に構築されて行く。われわれ製作スタッフは映画「二十歳の原点」の中にオリジナルの「二十歳の原点」のもつ強烈なテンションに負けぬものを何んとか打ち出そうと必死になって努力した。馬鹿みたいに一生懸命やってきた。恐らく高野悦子さんは、古風な表現をとれば、あの世から笑ってわれわれのやってきたことを見て居られるのではなかろうか。心から彼女の霊よ安かれと祈りたい。
 映画化と同時に、レコード化の話が進んだ。音響という抽象のメディアに「二十歳の原点」をどう確立するか、という謎のような難問に立ち向わなければならなかった。 何回も討論の結果たどりついたそのレコードの場合の結論は、フィーリングの世界の中に「二十歳の原点」を浮上させることだった。 音楽も言葉も歌も、その各々のどれ一つ「二十歳の原点」を断定し規定することなく、全体のフィーリングで「二十歳の原点」というものを感じとって貰うことを目的とした」(金子正且「製作の原点」『ある青春/二十歳の原点』(東宝芸音、1973年))とサウンドトラックの意図を述べている。

 四人囃子
 森園勝敏(ギター)、中村真一(ベース)、坂下秀実(キーボード)、岡井大二(ドラムス)
 「以前からスクリーンに自分達の音をのせることには興味を持っていたことから、性質上ステージほかなどの自分達の音をそのままのせることは不可能であるが、広い要素を内にふくんでいる自信はあるので、四人囃子のある一面をここに送ります」(「四人囃子メッセージ」『ある青春/二十歳の原点』(東宝芸音、1973年))

リバイバル上映

 映画『二十歳の原点』は封切り上映後も、各地での自主上映や名画座でのリバイバル上映がされた。
 このうち京福(現・叡電)叡山本線・一乗寺駅西の京都市左京区一乗寺高槻町にあった名画座・京一会館では、1976年の営業再開から1988年4月の閉鎖までの間、ほぼ毎年のように上映されたことで知られる。
二十歳の原点を上映した名画座の京一会館地図京一会館跡
 一定のファンの支持を受けたとともに、支配人だった弘原海晃のこだわりやメッセージがあったという見方もある。
京一会館1976年チラシ 京一会館「4月番組スケジュール」(1976年)によれば、初回にあたる1976年は4月14日から20日までの間、「若き・ラッキーレディー」と題して、小谷承靖監督『はつ恋』(東宝、1975年)、野村芳太郎監督『昭和枯れすすき』(松竹、1975年)、渡辺邦彦監督『阿寒に果つ』(東宝、1975年)とともに一日4本立ての番組編成でスケジュールが組まれている。
 1976年の上映は「「三無主義」とやゆされた世代の新入生がキャンパスライフを始めだしていた。彼(彼女)たちが68、69年に各大学で起こった出来事を知るきっかけに、という意味合いも含まれていたのだろう」
 「84年は4月18日から24日までの間、上映された。注目したいのは「青春メモリー京都」というキャッチコピーだ。高野さんが自死してすでに15年。その存在はある種の時間と距離感を伴う「過去の記録」となってしまった、といういかんともしがたい思いが弘原海支配人の胸中に去来したのだろうか。翌年以降、「過去の記憶」という位置付けがより明確になっていくのは85、86、87年の3カ年とも命日(6月24日)の前後に上映期間が設定されたことからも分かる」(「京一会館のチラシでたどるあの時・あの映画3「二十歳の原点」」『京都新聞2018年11月28日(夕刊)』(京都新聞社、2018年))という。

 最近では2019年7月11日(木)から16日(火)まで、大阪市西区九条一丁目の映画館、シネ・ヌーヴォで「東宝青春映画ニューウェーブ」の作品の一つとしてリバイバル上映されている。
シネ・ヌーヴォの二十歳の原点上映広告
 「二十歳で自ら命を断った立命館大学生・高野悦子が遺した日記集の映画化。69年、学園紛争の嵐の中で、理想と現実の狭間で悩む女子大生を描く」と紹介された。

 2021年3月7日(日)から13日(土)まで、東京・杉並区阿佐谷北二丁目の映画館、ラピュタ阿佐ヶ谷で「実話にもとづく…」の作品の一つとして上映された。
二十歳の原点を取り上げたラピュタ阿佐ヶ谷「実話にもとづく」の看板
 ラインナップには「学園紛争の嵐の中で、自己を確立しようと格闘しながらも、理想と現実のはざまで苦しみ孤独感を深めていく女子大生。「青春のバイブル」といわれた一冊、二十歳で鉄道自殺を遂げた高野悦子さんの日記を映画化」と書かれ、館内ギャラリーでは映画パンフレット(写し)が掲示されていた。
ラインナップ上の二十歳の原点紹介ギャラリーに展示された映画二十歳の原点パンフレット
 ラピュタ阿佐ヶ谷では2008年8月3日(日)から9日(土)まで「シネマ紀行~京都ものがたり」で上映されて以来13年ぶりだった。

 2024年2月15日(木)と17日(土)、東京・中央区京橋三丁目の国立映画アーカイブで、1970-80年代に女性が監督・脚本・製作などを行った作品の特集「日本の女性映画人(2)」で上映された。
国立映画アーカイブ日本の女性映画人の看板
 重森孝子の脚本として取り上げられ、作品紹介は「ベストセラーとなった、自殺した女子大生の手記をもとに映画化。学園紛争後の挫折感や若者の焦燥をテーマに、理想と現実の狭間で揺れ動く悦子(角)の最後の半年間を京都を舞台に描く。「死を賛美する風には描けなかった。ただ生きたい生きたいと願いながら、ずうずうしくなれなかった女として描いてみるより方法がなかった」と述べた重森孝子は、本作を含む70年代の東宝青春映画の他に『泥の河』(1981、小栗康平)等も執筆している」。
 長瀬記念ホール OZUの入り口脇にはポスターが立てられた。
上映されたホール入り口ホワイエに立てられた映画二十歳の原点ポスター
 国立映画アーカイブでは2007年8月25日(土)と9月25日(火)に「特集・逝ける映画人を偲んで 2004-2006」で上映されたことがある。2006年に死去した監督・大森健次郎の追悼にデビュー作として選ばれたもので、上映の際には主演の角ゆり子も姿を見せたとされる。

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