高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和39年)(昭和40年)

宇女高バスケット部同級生「一生懸命なカッコ」

 高野悦子は1964年7月22日(水)に以下の記述をしている。
 カッコはバスケットをするようになってから(七月十七日から)おしゃべりになったみたい。

 この日から、日記の記述の中心は高校でのクラブ活動になる。
 高野悦子が所属していたクラブは正式には「栃木県立宇都宮女子高等学校バスケットボールクラブ」という(本ホームページでは便宜上、以下「宇女高バスケット部」と呼ぶ)。指導教諭は若手で保健体育の石橋先生(仮名)、部員は11人(1965年度)と記録されている。
 当時、宇女高バスケット部に所属した同級生たちと会って話を聞いた。
栃木県立宇都宮女子高等学校

隣の席だったIさん「カッコを見てたんだ…」
 (旧姓)Iさんは宇女高バスケット部の同級生の中で高野悦子と親しかった一人である。当時のあだ名は名字の一部から“O”。Iさんはバスケット部を途中で退部している。

バスケット部での集合写真 I:この写真に私たちも一緒に写ってます。たぶん1年生の時です。
 カッコと私はバスケット部で同じで、1年生の時はクラスも一緒です。隣の席だったこともあるんです。ベラベラしゃべる人じゃなくて、部活以外は遊んだりしないで、いつも本を読んでた気がします。あまり目立った子ではありませんでした。

 カッコ☞1969年5月26日②

 カッコも私も中学生時代にバスケットをやってない初心者組で、先輩方がパスとかシュートとかを丁寧に教えてくれました。彼女は運動神経が良くて、ボールに対する感覚が良いんでしょうね、上手になっていきました。
 彼女はとにかく一生懸命やる人でした。バスケット部の合宿中も、人より早く体育館に行って、床を雑巾で拭くんです。お尻を高く上げて四つんばいになって。ズーって黙々と拭いてるんです。なるべくサボりたい私なんかと違って、すごいなあって…。

☞1964年8月5日「バスケットクラブの合宿だった」

 高野悦子は1965年2月21日(日)に指導教諭について以下の記述をしている。
 先生に一言
 二学期の終り以来練習に出なかったのはまずい。マージャンのひまがあるならクラブに来てほしい。練習を、もっと実戦に結びつくように、また練習試合も多くしてほしい。先生は私達を叱るぐらいに自分でもバスケットを研究してほしい。
 先生があんまり練習に来た記憶がありません。職員室で遊んでたのかなあ…、宇女高生だから自主性に任せてたんでしょうね(笑)。
 女子高で男子がいない環境なので先生が憧れの対象でした。石橋先生はかっこ良かったんですが、あだ名は「ダブルショック」(笑)。素敵だなって憧れて、まず結婚していることにショックを受け、さらにお子さんがいることにショックを受ける、ダブルショック。みんなが憧れるけど、もう手の届かない所の人ということでした。
 当時の宇都宮の女子バスケット部では、私立高校は練習がすごく厳しくて、試合の時にも失敗すると監督がスリッパを脱いで女の子をバシッとはたくので、それを見てて“かわいそう”と。私たちの先生はそういうこともなく、みんな先輩たちからいろいろ教わってました。

 当時の栃木県では宇都宮女子商業高等学校(現・宇都宮文星女子高等学校)バスケットボール部が強豪で、1961年、1962年、1964年、1967年に全国高等学校総合体育大会(インターハイ)で全国優勝している。
☞1964年11月15日「宇女商との試合に出してくれた」

体育館 合宿中、カッコにお母さんから手紙が来たんです。“無理しちゃだめだよ”って書いてあったようで、とてもしょんぼりと泣きそうな顔をしているのを見ました。彼女は「心臓が悪い」なんてひと言も言わなかったです。だから心臓弁膜症と言われていたことは知りませんでした。何でも一生懸命やってましたし。
 今になって思うと、自分が心臓が悪いのにそうできることがありがたかったと考えていたんじゃないかと思います。
 彼女が下宿しているという話を聞いてびっくりしたことがあります。自分の身の回りのことを自分でやるんで“下宿生は大変だなあ”って。かぜか何かで具合が悪い時も下宿だったからあんまり世話してもらえなかったというようなことを言っていて、かわいそうだなあと思ったことがあります。

 カッコと一緒に高校入試の模擬試験の採点のアルバイトをしたことがありました。高校生だからアルバイトと言っても、学校からあっせんされたのかもしれません。宇女高生とあと男の子、男子高生もいたんですが、部屋に集められて、赤鉛筆で丸を付けるアルバイトをしました。
 どうして覚えてるかというと、最後にカッコと私が部屋に残ったんです。そしたら廊下の男子高生3人くらいが終わってもなかなか帰らないで、前のドアの開いてる方からこっちをチラチラと見ているわけです。自意識過剰気味に“あら、もしかして私かな”と思ったら、私じゃなくてカッコを見てたんだという…(笑)。彼女に話をしたそうでした。宇女高にも美人はたくさんいたけど、本当にそのくらい美人でした。

☞1965年12月12日「キリスト教会にいった」

下宿に泊まった副部長Mさん「“さみしいんだろうな”」
 (旧姓)Mさんは高野悦子と同級生で、バスケット部の副部長を務めた。レギュラー当時のポジションはシューティングガード(後出のポジション図参考)で、ロングシュートを狙う位置だった。あだ名はボーイッシュなイメージから“Mクン”。

 M:私は1年生でバスケット部に入って高校卒業までいました。私よりはあとでしたが、カッコも初めの頃からいました。同じクラスになったことはないんですが、練習を一緒にしました。平日は授業等が終ったら体育館に直行して2時間くらい、当時は土曜日も半日は授業があって練習、それに日曜日も練習をしました。全員でパス、ドリブル、フォーメーションと結構やってました。
 彼女は、選手の時はひたすら一生懸命だったのが映像として記憶に残ってます。そういう性格だったんでしょう。色が白くて小さくて細かったんですけど、パスとかドリブルとか熱心にやってました。
 一生懸命やろうとするのが小さな体からあふれるような感じでした。一つずつの動作が大きいんです。パスでも普通は“プッ”とやるところを、彼女は一生懸命に“グーッ”と押すような感じです。ドリブルも私なんかヒュヒュヒュってやってましたが、彼女は体の全体を使ってドリブルしていました。


 1964年10月5日(月)で高校の校風についてふれた記述がある。
 もっと宇女高生というプライド(自主性を重んじる宇女高生)をもって進んでいけたらと、自分の心にも言いきかせている。
 “宇女高生らしく”っていうのがあるんです。これが「らしく、らしく」って、日常的に上級生から下級生に下ろされて来るんです。バスケット部では代々、先生以上に上級生が厳しかったかもしれません。
 全てについて「らしく」「らしく」、宇女高生らしい態度をする。服装もそうでした。宇女高は制服がないから。宇女高生「らしく」きちんとあいさつしたり、規律を守ったり、一生懸命やったりするということでした。何かにつけて「らしくない」「らしくない」って先輩方にさんざん言われました。自分で自分を律しないといけないという校風というかバスケット部のモットーというか、そういうのがありました。

☞二十歳の原点1969年1月6日「─己を律せよ─」

 高野悦子は1965年6月2日(水)に宇都宮での下宿生活を記述している。。
 今、この日記を書いている所は、宇女高近くの矢野さん宅だ
矢野さん宅下宿跡 カッコは最初は実家から通ってましたが、栃木県でも北部の方で通うのが難しかったから、学校の近くに下宿をしました。その下宿に一度だけ泊まったことを覚えています。
 私も結構遠くからバス通学してたんですが、彼女が「一回泊まって」って。大家さんが当時高校生の私から見てちょっと年配のおばあちゃまだった気がするんですが、大家さんが出かけて留守になるので“さみしいから”という感じでした。
 下宿は普通のお宅で離れのような所でした。部屋の中が殺風景だった記憶があります。物があんまりなくて、座卓を机の代わりにしていました。テレビはなくて、ラジオがありました。
 夜は話をしました。その時に「背が高くなりたくて、バスケット部に入った」って言ってました。それで「私も、私も」って言ったかもしれません。
 翌日は朝、彼女が朝ご飯を何か作ってくれた気がします。目玉焼きか何か…、食事してから授業で学校に行きました。

「矢野さん」ご家族の話

 カッコはバスケットにすごい熱心だったですけど、心臓が悪かったんです。本人から直接その話を聞きました。生活に差し障りはなかったですが、いくらか気を付けた方がいい、激しい運動は止めた方がいいということでした。それでもバスケットには関わりたいということで、マネージャーになりました。
 マネージャーとして頑張ってた姿も覚えてます。でも2年生の2学期終わりくらいでやめました。もの足りなかったんでしょう。みんながやっているのを見てると選手をやりたかったんですね。だから選手をやめなくちゃいけなくなった時にショックが大きかったと思います。
 ただクラブをやめる人は他にも多かったです。運動部が強いところなら別でしょうけど、県立でそこそこにやってる高校だとやめる人は多くて、一学年で10人も残らないで、自然にぎりぎりくらいになるんです。

 カッコは何ごとにも取り組み方が一生懸命だったと思います。真面目というか考え方がしっかりとしているというか、下宿で一人で生活してると違うのかなあという印象を受けました。
 結構おもしろい子で、寡黙ではなかったです。明るい方だったとは思いますが…、ただ何か無理して明るくしている感じがする時もありました。
 マネージャーの時ですが、私たちに向かっては明るくしてて、練習中とか、みんなに笑顔を見せる必要がない時に、フッと暗い表情を見せることがありました。“さみしいんだろうな”って思ったことがありました。


部長のヨッチャンことSさん「忘れられない姿」
 (旧姓)Sさんは高野悦子と同級生で、バスケット部で部長(キャプテン)を務めた。バスケット部では「二十歳の原点ノート」に最も登場する。
 高野悦子は1965年11月27日(土)に以下の記述をしている。
 「マネージャーをやめたい」ということを部長─ヨッチャンに話した。
 S:たしかに私は高校時代に、下の名前で「ヨッチャン」と呼ばれていました。それで高野さんのことは、みんな「カッコ」と呼んでいました。カッコというのが和子から来ているということは聞いていましたが、どうして和子なのかは知りませんでした。
 彼女は元気が良くて明るかったんです。頭が良くて勉強もできました。同じ高校と言っても、彼女は西那須野町で学区外から進学してるから優秀なんです。地元の中学校の成績が同学年で1番か2番で来ているはずだと思います。
 それに比べて私は学区の宇都宮市内からでしたからね。バスケット部に入学した感じです(笑)。

 ヨッチャンは仮名だが、実際も下の名前で○ッチャンと呼ばれていた。
 栃木県では1949年に県立高校で学区制が導入され、宇都宮女子高校は宇都宮市と周辺からなる宇都宮学区となった。高野悦子が受験した1964年当時、学区外から進学できる枠は募集定員の一部だけだったため、入学は難しかった。ただし宇都宮学区においても宇都宮女子高校への進学が容易だったわけではない。
 栃木県立高校の学区制は2014年に廃止された。

 1965年11月27日(土)には練習の思い出が記述されている。
 …夏の合宿、羽黒山までのマラソン、
 宇女高は女子高で進学校だったので、文化部に比べると運動部に入る人は少なかったです。それに当時の栃木県の女子バスケットでは県立では鹿沼高校が強かったし、宇都宮中央女子高校もそうでした。私立はともかく“他の県立高校には負けるな”いうことになりました。ユニフォームは黒。彼女はいつも一生懸命、熱心に練習をしていました。
 ここには羽黒山とありますが、実際には羽黒山の近くにある「ひょうたん池」まで行くことが多かったです。「他の学校に負けないために走ろう」ということで、マラソンでは片道30分くらい走っていたでしょうか。今は宇女高の周りも大きな道路ができて変ってしまいましたが。


 さらにSさんについて評している。
 よっちゃんが一生懸命プレイしているのをみると、ほれぼれする。
 動きが美しい。
ポジション図 今のバスケットボールは選手全員が攻撃要員になるんでしょうが、かつてはチームの中で役割分担がありました。コートの前の方にいる2人は身長が高くてゴールに向かっていきますが、後ろの方の選手はボールを回してつないでいくので、背が高くなくても務めることができました。
 中央のポジションだった私も身長は150センチ台前半でした。だから彼女も背が低いことがハンディということはなかったと思います。

 中央のポジションは現在は「ポイントガード」と呼ばれ、チームの司令塔の役割を果たす。高野悦子とSさん(ヨッチャン)は、めざすポジションが重なっていたことになる。

 今でも忘れられないのは、ある時、彼女が泣いている姿を見たことです。
 体育館の中のステージのように高くなっている所でした。そこで彼女は一人で泣いていました。心臓の病気のことでバスケットボールの活動が続けられないという話を聞いた時だったんだと思います。病気については、彼女がそんな風には見えなかったので、気の毒に思いました。
 あの時以降です。彼女から明るさがなくなりました。マネージャーは複雑な気持ちでしていたんじゃないでしょうか。


宇女高バスケット部卒業写真 Sさんは「二十歳の原点」を知ってはいたが、これまで読んだことはなく、高野悦子が後に「心臓に欠陥なしと判定された」ことについて知らなかった。
 今、彼女が実は心臓の病気ではなかったと判定された話を聞いて、衝撃を受けました。彼女はもし病気と言われてなかったら、バスケット部を辞めてなかったと思います。最後まで続けてレギュラーになっていたと思います。

 今でも自分のことを考えてくれる読者がいるって、彼女もきっと喜んでるかもしれません。すごいなあ、カッコも。(談)


 Sさんへのインタビューは2013年9月22日に行った。

 高野悦子が高校1年生の1964年10月18日(日)、宇女高バスケット部は1964年東京オリンピック第9日のバスケットボール競技を見学した。
国立屋内総合競技場別館

 国立屋内総合競技場別館(現・国立代々木競技場第二体育館)は、東京・渋谷区神南町(現・神南二丁目)のスポーツ施設である。1964年東京オリンピックではバスケットボール競技の会場となった。
原宿駅から代々木第二体育館代々木競技場第二体育館

当時の館内 宇女高バスケットボール部のメンバーは指導教諭の引率で、国鉄東北本線等を利用して日帰りで見学した。高校生団体券(200円)と見られる。
 第9日のバスケットボール競技のうち見学したのは予選リーグの09:00プエルトリコ─ハンガリー、10:30アメリカ─韓国、12:00ポーランド─カナダ、13:30ユーゴスラビア─フィンランドのいずれかの対戦である。
 大会ではアメリカが優勝し、日本は16チーム中10位で健闘と評された。なお当時は男子のみの競技であり、女子は1976年のモントリオールオリンピックから実施されている。

 ※注は本ホームページの文責で付した。
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