高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和40年)(昭和41年)
1965年 9月13日(月)

宇女高元生徒会長・まゆみさん「尾瀬キャンプとカッコの思い出」

 高野悦子は1965年9月13日(月)に以下の記述をしている。
 立会演説会があった。会長候補にまゆみさんが立ったが、その演説の仕方がまゆみさんらしくて大変よかった。

 ここで登場する、まゆみさんこと(旧姓)Kさんに会って話を聞いた。Kさんは、高野悦子と宇都宮女子高校の同級生で、同学年での生徒会長を務めている。まゆみさんは仮名だが、実際に下の名前で〇〇〇さん、上級生などからは〇〇〇ちゃんと呼ばれていた。

 K:この「まゆみさん」というのが私なんです。生徒会長に立候補した「まゆみさん」と名前が入ってるから、私のことを指しているとわかりました。とても褒めてくれてるんです。
 カッコとは高2の時に同じ2年5組で、席が隣になったこともあります。1年生の時にはバスケット部も同じだったし、親しかったんです。

 高野悦子はまゆみさんの人物像をくわしく書いている。
 彼女の積極的態度には頭がさがる。内にこもることをしないで、どんどん外に向かっていく。絶対ヒクツにはならない。正々堂々と前に進んでいる。公の前で、自分の仕事に責任を持って仕事をやっていくということは大変なことだ。つき進むという態度があるからこそ、彼女は公の仕事も今までりっぱにやってき、そしてやろうとしている。
創立90周年記念式典 これって、カッコが自分と反対のことを言ってるんじゃないかと思っちゃたんです。私は周囲からはそういうふうに見えてたかもしれないですよ。でもね、私も、この当選した日の夜は眠れなかったです。
 実はこの時の生徒会長選挙は、立会演説こそあったんですが、対立候補が誰もいませんでした。宇女高90周年という一大イベントが目前に迫っていて、全国の女子高で90周年を迎えるのは宇女高だけでした。先生方に“天下の宇女高がやるんだから、超一大イベントでなければまずい。それをしよって立つ生徒会なんだから”って前もって言われて重い責任を持たされたら、誰も立候補する人なんていないじゃないですか。私だって嫌です。ましてや高校2年の後半で大学受験が目の前になってきているのに、こんなの自分から受けるなんていう人はいなかったんですよ。それが私に白羽の矢が立って、責任の重さに大変悩みました。
 創立90周年記念の式典には、いろんな世代の卒業生の方がやって来られて、1000人以上のお客様で体育館には入りきれないので、校庭で開いたんです。そのものすごい数の前であいさつ文を長々と読むわけです。その中身だって、国語の先生にしつこく何回も文章を直されて書いて、“決意”を述べなければいけません。そういう役だったんですよ。だからもう、この期の生徒会長は非常に重要だったんです。
 生徒会室に入り浸りで…、私にとっては、まあ生徒会室は“逃げ場”だったようなところもありましたけど。

 生徒会役員は任期が半年で、まゆみさんは2年生前期に会計監査、2年生後期に生徒会長、3年生前期に議長団メンバーを歴任した。
栃木県立宇都宮女子高等学校

バスケット部での出会い
 高野悦子は1965年3月26日(金)に以下の記述をしている。まゆみさんは、高野悦子と1年生の時は同じバスケット部員だった。
 まかないさんが東京見学に行って休みなので、一日の食事を一年生が受け持った。私とマユミさんは朝。
 K:私は1年生の後半からバスケット部にいて“頼まれマネージャー”をやってんです。生徒会もやってましたから、運動部に没頭できる状態じゃありませんでした。先生の代わりに代表者会議などに出て抽選をしてくるとか、先生から毎日の練習メニューを聞いて、ホイッスルをピィピィと吹いて「はい始まるよ」「フットワーク何分ね」「パスがあって」とか。マネージャーとして、バスケット部時代がカッコと重なっていました。

岩山カラー写真ポイント

 1965年6月5日(土)にバスケット部での日常について考えを記している。
 要は「やる気があるか」ということ。
 もしやる気がなければ、アレはあそこがまずかったというような反省もないし、新しい行動への意欲もわいてこない。
体育館 カッコはものすごく「やる気」があった人でした。
 体育館での練習でフットワークをやると、自分の経験でも疲れるを知ってますから、だれもが疲れない方法を取るのはわかってるんです。でも彼女は自分の極限まで追い詰めてました。その姿がフットワークや体力づくりで現れていました。
 たとえば筋力を鍛えるための運動をする時も、手を前に出してギュウギュウとものすごい力を入れて握りしめて、中腰もぐっと低くなるまでしていました。ある程度でごまかしちゃう人がいるのに、彼女は50回とも絶対にサボらないで極限までしていました。ドリブルやパスの場面でも、あの小さな体でバスケットの重い7号球を扱って、しかも“メディシンボール”という重りの入ったボールを手首だけでスナップを効かせて投げたりもするんで、かなり体を疲れさせていたことと思います。木造の体育館の床を雑巾がけする姿も真面目。真面目過ぎるほど真面目。
 マネージャーの立場から見ていて、“ああ彼女はすごいなあ”って感動したものです。彼女との最初の出会いのころですが、今思い出すとその印象が強く残っています。

 当時の高校女子バスケットボールでは男子と同じ7号球が使われていた。現在の規格では一回り小さい6号球になっている。
宇女高バスケット部同級生「一生懸命なカッコ」

尾瀬キャンプの思い出
 1966年7月18日(月)で尾瀬への夏山キャンプについてふれている。
 山へ行きたくなった。立会演説が終わったあと、赤津先生が「若者よ、山へ!」と一席ぶったからだ。(今年は例年に比べてぐっと申し込み者が少ないのでアピールのため)まゆみさんも誘いにきたので、よけい行きたくなった。
 K:私がカッコに尾瀬に行こうって誘いにいきました。3年生の時はクラスが違いましたが、私はあっちこっち顔を出してました。他の同級生にも「進学組だけどいいじゃん、行こう行こう」という…、「大学受験ばっかり追われてないで、夏休みは少し心開いて元気に行ってこようよ!」といった感じで誘ったと思います。
 尾瀬は生徒会も関係があったので、私も生徒会の一員として、バスが埋まらないと一人分の負担が高くなることもあるし、「みんな行って!行って!」って。

 宇女高では毎年7月下旬に「夏山キャンプ」と称して希望する生徒で尾瀬へ行っていた。この年は生徒約40人が参加した。
 高校3年の時のまゆみさんは6組で、高野悦子は7組だった。
 赤津先生は大町雅美のことである。

 行くことにした。三泊四日だ。勉強が遅れるからやめようと思ったけど、山へのあこがれが強かった。
 尾瀬キャンプについて、まゆみさんはアルバムにまとめて残していた。
まゆみさんのアルバム尾瀬キャンプの地図
 尾瀬は3泊4日でした。誘ったためかもしれませんが、尾瀬ではカッコとずっと一緒だったかなと思います。一緒に歩いたり、写真で隣に肩を組んだりしているのも結構あって覚えています。
 アルバムで尾瀬のページに地図や文章も書いてあるんですよ。
尾瀬キャンプの様子 我ら、進学組での楽天家族。
 半年後に迫った受験もそっちのけ。
 大手を振って夏山キャンプ。
 とは言ったものの、皆の話の落ちつくところは、やはり夏休みの受験勉強のこと。
 いや、この一週間、頭をからにして歩きまくろうではないか。
 いざ行かむ、たくましき乙女達よ!
 大学受験を控えた高校3年で尾瀬に来て、悩んでいたのは彼女だけでなくて、私も一緒に行ったみんなもそうでした。泊まった山小屋とかでみんなでいろんな話をしますけど、結局、最後に行き着くのは「ねえ、あんた勉強どうする?」とか「どこ志望校に決めた?」とか受験の話でした。
尾瀬キャンプ地図
 今でこそ尾瀬は比較的簡単に行けるところになりましたが、当時は大変な思いをしました(笑)。山にもえっちらおっちら登るし、山小屋に泊まるんですけど自炊なのでものすごい道具を背負ったし…。
 宇都宮からバスで群馬県側から鳩待峠まで行って、靴に付いている外来の種子なんかを持ち込まないように全部きれいにしてから、“いざ出発”って下りて行きました。

 前年の1965年10月に栃木県日光市と群馬県片品村を結ぶ有料道路の金精道路(現・国道120号金精トンネル)が開通し、宇都宮から尾瀬へのアクセスが改善していた。
 鳩待峠は群馬県片品村戸倉にある峠で尾瀬入山者の過半数が利用する最もポピュラーな入口になっている。ここで高野悦子はまゆみさんらとグループ写真を撮っている。
鳩待峠尾瀬ヶ原方面入口
 撮影場所は鳩待峠から至仏山などに直接向かう登山口の前で、背景の標識には「日光国立公園・尾瀬、鳩待峠・標高1615米」と表示されている。現在、鳩待峠の標高は1,591mになっている。
 鳩待峠休憩所の前に一般の駐車場があったため、マイカーとみられる車両の一部も写っている。
鳩待峠グループ写真ポイント鳩待峠の高野悦子
 尾瀬は2007年に日光国立公園から分割され、会津駒ヶ岳、田代山、帝釈山など周辺地域を編入する形で尾瀬国立公園として新設されている。
 1974年にマイカー規制が導入され、現在は夏のピーク時に鳩待峠へマイカーの乗り入れはできなくなっている。

 1泊目は山ノ鼻で、そこに大きな荷物を置いて、至仏山に登って降りてきました。天候が良かったし、至仏山は比較的楽で、全員行きました。

 ここで宿泊したのは尾瀬ヶ原の西端にある群馬県片品村・山ノ鼻地区の山小屋、山の鼻小屋である。1950年代に尾瀬を訪れた皇族が利用したこともある。1973年に現在の建物に建て替えられている。
 この地区にある尾瀬山の鼻ビジターセンターは群馬県尾瀬管理保護センターとして1967年に群馬県が設置し、1993年に改築してビジターセンターになった。
山ノ鼻地区至仏山登山道
 至仏山は群馬県水上町(現・みなかみ町)と片品村の境界にある標高2,228.9m(現・2,228.0m)の山。山ノ鼻から至仏山の山頂まで標準所要時間が上り2時間半・下り2時間の往復計4時間半だった。
登山道の急斜面高天ヶ原
 至仏山頂で高野悦子を含む一行は記念撮影をしている。
至仏山頂至仏山頂の標識
 木製の標識には「至佛山頂・2228.9M」などと書かれている。雲に覆われて景色は見えない。
至仏山頂記念撮影ポイント至仏山頂での写真
 山頂にあった木製の標識は現存しない。また現在は植生保護と安全のため山頂から山ノ鼻へ下るルートが禁止されている。
 まゆみさんのアルバムでは至仏山中腹から撮影した尾瀬ヶ原の写真がハイライトになっている。
当時の風景
現在の尾瀬ヶ原
至仏山・高天ヶ原で休憩尾瀬・山ノ鼻で昼食
 ※ポイント以外のスナップ写真の具体的な撮影場所もおおむね判明しており、追って加筆することにしたい。

 それから尾瀬ヶ原をグループに分かれて歩きました。私なんか三条ノ滝あたりまで行きました。かなり遠くまで、もうあっちやらこっちやらぐるぐる回りながら、結構歩きましたね。
尾瀬ヶ原での集合写真高野悦子とニッコウキスゲ
 そして長蔵小屋という辺りに泊まって、次の日、最終日に燧ケ岳に登るんです。至仏山と燧ケ岳の両方を“女の子”なのにみんなよくまあ…。ただ燧ケ岳はちょっと厳しい山で、1年生は無理だということで2、3年生だけで登りました。岩場があって、もう両手で…。自分が登ることに精一杯で大変だった思い出であります。

 宿泊したのは福島県桧枝岐村・尾瀬沼畔地区の山小屋、元長蔵小屋である。元長蔵小屋は、ほぼ原形をとどめて現存する。
元長蔵小屋当時の元長蔵小屋の看板
 元長蔵小屋は現在、人数の多い団体の場合や、尾瀬沼付近で宿泊客が多く既存の山小屋で収容できない時に限って利用されているという 。

 尾瀬沼畔地区から燧ケ岳山頂までは長英新道(燧新道)を通って上り3時間以上かかる。
尾瀬沼畔から見た燧ケ岳長英新道分岐
 高野悦子も燧ケ岳への登山に参加したが、体力が続かず途中で引き返したとされる。
大江湿原のニッコウキスゲ尾瀬沼から見た三平峠方向
 この地区にある尾瀬沼ビジターセンターは1964年に厚生省(現・環境省)が設置しており、1986年に全面改築された。
 また尾瀬沼でのボート等は1967年に廃止された。
 高野悦子は元長蔵小屋近くの尾瀬沼畔でまゆみさんらとともに肩を組んでスナップ写真に写っている。
尾瀬沼スナップ写真ポイントグループで肩を組んだ写真尾瀬沼での写真
 元長蔵小屋の前でキャンプ参加者全員の集合写真を撮影している。
元長蔵小屋集合写真ポイント元長蔵小屋前での高野悦子
 尾瀬沼についてもまゆみさんは書き残していた。
尾瀬沼のスイレン 神秘的な尾瀬沼を前に、
 暗緑色に静まる原始林の向こうに
 燧岳が雄大な山容を誇って空を圧し、
 爽澄な山気は地に充満して
 香り高き天地有情の賦を
 静かに、静かに口ずさむ…。

 帰りは群馬県片品村の大清水からバスで宇都宮に戻った。
 尾瀬の入山者数は1996年の64万7,500人をピークに減少傾向にあり、2016年は29万1,860人と半分以下になっている。ミズバショウやニッコウキスゲ、紅葉の時期の週末に集中する状況は変わっていない。
 一方で近年はシカの食害が大きな問題となっている。1990 年代半ばにシカの生息が確認されて以来、ニッコウキスゲ、ミツガシワなどの湿原の植物や、森林内の植物への被害が見られるようになった。

 彼女は尾瀬に行った感想を日記に書いてないですね。日記では苦しいことばかりですが、みんな女の子で、いろんな曲を大きな声で歌いながら歩きましたし。実際には楽しい青春があったんですよ。
夏の思い出

 カッコが自殺したのを聞いた時はびっくりしました。そんなことするなんて思いもしなかったからです。
 美人でしたし、いつもニコニコして明るくしていました。でも心の内面は出していなかったのかもしれません。日記を書いてたなんて知りませんでした。そんなことを学校じゃ素振りも見せなかったですから。
 「二十歳の原点ノート」を読むと、彼女は特に高校2年生の中ごろから、“自分はどう生きたらいいか”と、ずっと自分自身に対して問いかけていますよね。そして目標を達成するために計画を立てるけど、それを実行できなくて、とても思い悩んでいますよね。その悩みを日記のノートにどんどんぶちまけてね。
 誰だって“他人向けの顔”を作りますよ。だけどもうちょっと本音を出しても良かったのかなあと、甘ったれても良かったかなあと思ってしまうんです。

 Kさんは卒業後、大学を経て中学校の教師となった。
一教師として
 「二十歳の原点ノート」を読み返すと1965年7月11日(日)の記述が印象的だという。
 お父さん有難う。
 私が今月使った金額は一万九千五百円にもなりました。これは私だけでお姉さんの分もまだあるはずです。
校庭を見つめるまゆみさん K:カッコは家庭環境に恵まれすぎたのかもしれません。姉妹2人を下宿させるだけの経済力が家庭にあった…、あの当時ですよ。
 亡くなったあと、バスケット部の部長だったヨッチャンと一緒にお悔やみを申し上げるため西那須野のご実家に伺いました。そこで感じたのは、こんな立派で恵まれたご家庭で育ったんだなあって。
 お母さんが民生委員と聞いて、民生委員って地元で信頼されてないと選ばれませんから。お父さんの三郎さんも当時は県庁の幹部で後に町長をされましたが、自分の娘のために「二十歳の原点」を出すまでのあらゆる面で力を持った立派な方だったんですね。膨大な日記のノートを見せていただいて、これを読むんだと思いました。
 宇女高当時の彼女にはそういう雰囲気は全然ありませんでした。付き合っていてもわかりませんでしたし、そういう生い立ちの話が出たこともなかったです。  
 この時に、お母さんが、“とってもいい子で本当に頑張って、いい娘だった”と言って、もう全ての話が終わったあと、ポツっと、「でも親不孝だよ、卑怯だよ」って言われたんです。やっぱり自分が親になったら、どんなことがあっても子どもが先に死ぬなんて許せないですよ。
 この言葉があって、私が後に中学校の教師になって学校で道徳の授業を担当した時、生徒たちには「死ぬほど勇気があったら生きてみろよ、何だってできるだろう」って教えてきたつもりです。

高野悦子の実家

 今だから言えるのかもしれませんが、生徒を送り出してきた一教師の立場で私が考えるのは、カッコが宇都宮ではなく西那須野から近い地元の高校に進学していたらということです。私みたいに宇都宮で中学受験して入った同じ中学校からドバッとたくさん宇女高に来て“のさばってる”生徒と違って、遠くの中学校からたった一人で宇女高にやって来る子は、何かあった時に「ねえ、〇〇ちゃん」なんて言えないんですよ。
 学区外の西那須野でトップクラスで宇女高に入ってきたので、地元の高校だったとしてもトップクラスでしょうし、何よりも自宅から近いと時間的ゆとりができます。そうすると精神的に余力ができるので、何か悩んでも両親や友人に話しかけられたんじゃなかったかなあって。
 それから彼女が入った立命館大学は有名で立派な大学ですが、“マンモス大学”でもあったと思います。マンモス大学では一般的にどうしても“個”というものが埋没しがちな面があります。少人数教育の大学の方が、私の場合もそうでしたが、学生どうしや教授との距離が近くて家庭的で、人間味のある教育をする環境が整っているケースが多いんです。
 現在の中学校教育でも生徒全体というより、それぞれの“個”を伸ばすことが重視されていますが、大学でも一人一人を伸ばす教育の中で育っていたら、彼女の“いい芽”がうんと伸びて、目標とすることを達成できたのかもしれないと思うんです。

宇女高下級生からのメール
 まゆみさんは生徒会長だったこともあって、前後の学年の生徒の間でもかなり知られた存在である。
 尾瀬キャンプについて、2年下の学年で参加した女性から本ホームページにメールを頂いていたので、一部を抜粋して、まゆみさんに紹介した。
 私は、1年生なので余裕で参加しましたが、高野さんは3年生で、しかも進学クラスなのに参加した数少ない人でした。
 高野さんはすごい余裕だな、と思った記憶があります。
 その旅行にはみな友達として参加しているので、学年を越えてまで話す機会はなかったのですが、高野さんの可愛らしさと明るさは目立っていました。
 高野さんが一緒に来ていた人はマユミサンといい、前年度の生徒会長でとてもしっかりした姉御肌の人でした。この旅行でもリーダー格でした。
 またマユミサンは高野さんを妹のように大切にし、高野さんは高野さんでマユミサンに甘えているように見えました。

 ※実際のメールでは「マユミサン」ではなく、実名の「〇〇〇サン」になっている。
 「姉御肌だったんですか」と本人に確かめてみた。
 「そんな~。自分では記憶がないけど、みんなお友達だものねえ」と、まゆみさんが戸惑うと…。
 すかさず傍らにいた同級生たちが「リーダー格!常に姉御肌」、「この人はそう!」と次々と太鼓判。
 まゆみさんが思わず苦笑いをした。

 取材に際して、まゆみさんは「二十歳の原点ノート」[新装版]を通読して来られ、気付いた文章にたくさんのメモや付箋をして準備されていた。高野悦子の友人であるとともに同学年で生徒会長を務めた立場としての責任感に違いない。りんとした姿勢に宇女高OGのたくましさを感じた。
  ※注は本ホームページの文責で付した。

 インタビューは2015年11月8日に行った。

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