高野悦子「二十歳の原点」案内

高野悦子が過した京都の下宿、喫茶店、バイト先…

「二十歳の原点」の現場を取材・調査・研究しました。
立命館大学や学生運動など背景も紹介しています。
読者の方が日記を理解する参考になれば幸いです。

あらすじ


 高野悦子は京都の立命館大学文学部日本史学専攻の2年生。中学生の時から日記を付けている。
 1969年1月2日、全共闘による東大安田講堂封鎖で学生運動がピークを迎える中、20歳の誕生日を迎える。

高野悦子の自宅での写真 1月、栃木県西那須野町の実家から京都・嵐山の下宿に戻り、成人の日の日記に書く。
 ─独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である─
 立命大でも紛争が激しくなり大学本部・中川会館が全共闘によって封鎖される。どう立ち向かうべきか焦りが募っていく。

 2月、大学近くの喫茶店・シアンクレールで音楽を聴きながら思いを巡らす。傍観を止めて自ら行動することを決意し、入試実施を控え騒然としたキャンパスで夜を徹する。
 機動隊が入る事態を目の前にして、ついに全共闘の集会やデモに参加する。

 3月、京都国際ホテルでウエイトレスのアルバイトを始めて、違う世界があることを知る。
 仕事を続けながら、学生運動に関わっていくために、友人が一緒にいる下宿から丸太町御前通近くの部屋での一人暮らしに移る。

 4月、大学3年生になったが、“自分の行動を理解してもらえない”と最大の相談相手だった同級生・牧野との仲を絶つ。
 アルバイト先の男性・中村に恋心を持ち、交際を深める。同じころ、沖縄返還のデモをきっかけに全共闘のバリケードに泊まるようになる。

 5月、中村に別の女がいることを知りショックを受けるが、なかなか諦められない。
 立命大のバリケードは機動隊に追い出され、移った京大では機動隊とのぶつかり合いで警察署に連行される。大学の体制とその下で学生であることを否定し、両親との話合いも物別れになる。

 6月、アルバイト先で今度こそ中村に別れを告げようと思うが、できないままの日々が続く。体を張って取り組んだ全共闘運動に停滞を感じ、行動する熱意がなくなる。
 「人間を信じてはならぬ」と書き、精神がさらに不安定になっていく中、「旅に出よう」という詩を残す。6月23日未明で日記の記述は終わる。

 1969年6月24日、高野悦子は鉄道自殺する。

最新情報

2024年02月07日
取材ノート・かるちえ2024年に高野悦子が見た洋画を掲載しました。
2023年12月17日
二十歳の原点序章1967年4月9日に「高野悦子が撮影した青雲寮」、1968年11月8日に「袋詰めアルバイト先」を追記しました。
2023年11月27日
1968年10月21日に「愛宕山登山ルート」、二十歳の原点1969年3月11日に「用足し(区役所支所)」を追記しました。
2023年11月03日
西那須野・宇都宮で1965年@に「高二遠足」「袋田の滝写真ポイント」「バヤリース岩」、1969年3月16日に「とんちんふぁんてん」を追記しました。
2023年10月16日
取材ノート・かるちえ2023年Aに舞台『アカシアの雨が降る時』(2023年上演)を掲載しました。
2023年08月08日
1969年4月15日に「同じ日に4店はしご≠ナはない」、序章1968年10月14日に「月見パーワン(廃村八丁)」を追記しました。
2023年07月17日
1969年6月22日に「詩の成り立ち」を追記しました。1969年5月26日「中村と実際に歩いたルート」に加筆しました。
2023年06月18日
高野悦子の母・高野アイさんは2022年6月19日に死去されました。ご冥福をお祈りします。「母 高野アイさんと会って」に追記しました。

はしがき


 本ホームページは、高野悦子著「二十歳の原点」についての研究です。

 同書は1970年代を代表するベストセラーの一つであるとともに、わかりやすく親しみやすい女子学生の文章から、現在もかなりの読者が存在しています。玉石混交ではありますが扱うサイトやブログもすでにあり、それらをご覧になっている方もいらっしゃると思います。

 しかし本ホームページは、それらサイトやブログの大半とは趣きを大きく異にしています。最大の違いは、本ホームページでは「二十歳の原点」の記述や登場する事実、背後関係について可能な限りの確認を行った点です。
 そして自分で書くのもおこがましいですが、確認はかなり高いレベルで行いました。歳月の経過はあまりに大きく、その作業は結果的に困難かつ膨大でした。

 このため従来の一部サイトやブログの内容の説明と食い違う部分があるのはもとより、同書の記述自体と事実関係との相違を指摘したところもあります。
 多くの方にとって、これまで同書を読んでいてわからなかった点や、あるいは知りたかった点を理解する参考になると信じています。

 なお非営利目的とはいえ、著作権尊重の観点から文章や写真等の引用等は最小限にとどめました。引用元は明記してありますので、本ホームページをご覧になった方がご自身で原文等にあたられることを希望します。タイトルに「案内」と名付けたのもそのためです。

 もし本ホームページによって、「二十歳の原点」に残した高野悦子さんの軌跡と、それを公表した故・高野三郎氏の思いが末永く伝わる一助になれば、編集人の望外の幸せです。

 おしまいに本ホームページにはたくさんの方のご協力をいただきました。とくに取材を重ねた京都の方々には、貴重な時間を使って親切に対応していただきました。改めてここに感謝いたします。(2012年10月)


一年にあたって


 高野悦子「二十歳の原点」案内の開始から一年がたちました。

 この間、予想を超える多数の皆さまにご覧いただくことができました。励ましのメールや鋭いご指摘のメールもたくさん届きました。誠にありがとうございます。
 また全国各地の取材・調査で多数の方々に惜しみないご協力をいただきました。高野悦子さんの生前のご人徳によるものと思いますが、ご協力がなければ本ホームページは成り立ちませんでした。ここに改めて感謝いたします。

 私事になりますが、ことし2月に母が、8月に父が他界しました。編集人はホームページご覧の方の想像より年齢が低く、まさかこの歳で両親とも失うとは思いもしませんでした。命の大切さ、尊さを身にしみて感じました。
 大変恐縮ですが、これに伴って─もともと会社勤めのかたわらという制約はありましたが─執筆作業が遅れております。尽力しておりますが、取材した内容の一部は掲載までかなりのお時間をいただいていることをお許しください。

 その一方で取材をさらに急いで進めることにしています。
 関係者が高齢化しています。たとえば、これまでの取材で、高野悦子さんと同じく1967年春に立命館大学文学部史学科日本史学専攻に入学した105人のうち10人以上がすでに亡くなっていることがわかりました。その中には、日記の記述に登場する人物が複数含まれているほか、最近亡くなったばかりの方も目立ちます。
 今、少し思い上がりかもしれませんが、二十歳の原点の現在の読者はもちろん、将来の読者から「どうしてあの時にできるかぎり取材をした人はいなかったんだ」と言われることのないようにしたいと考えています。

 今後もあたたかいご支援をいただければ幸いです。(2013年10月)


三年半がたって


 「二十歳の原点」案内は三年半がたちました。

 個人的ですが、一昨年夏に勤め先で配置換えがあり、極めて激務になりました。時間も気力も余裕がなくなり、取材した内容をホームページに掲載するまでかなりの長期間を要する事態になりました。
 しかし、そうした間にも高野悦子さんの関係者の方から連絡をいただいたりお会いする中で、数多くの貴重な当時の情報をいただきました。それらは高野悦子さんが残した軌跡にほかなりません。正確性を十分に確認したうえで、できるだけ生かしていくことを改めて誓いたいと思います。

 そしてホームページでさらに大切にしたいことを2点加えていきたいと思います。 
 一つは女性の観点です。高野悦子さんを間近で見て話していたのは圧倒的に女性です。さらに現在の「二十歳の原点」の読者は女性の方が割合が高くなっています。無意識でも男の一方的な目線になってしまわないよう心がけたいと思います。
 もう一点は、高野悦子さんが“見た風景、暮した世界”と現在との違いを明らかにすることです。スマートフォンや携帯電話はおろか、CDもラジカセもない時代です。私たちが当然と思っていることで当時は事情が異なることについて詳しく触れたいと思います。
 いずれも本ホームページが、あくまで読者の方が日記を理解する参考になることをめざしているためです。

 引き続きご覧いただければ幸いです。(2016年4月)


日記の真実を求めて


 六年をかけてここまでたどり着きました。初心に返るつもりで、ホームページの考え方を改めて記したいと思います。

 高野悦子「二十歳の原点」は戦後の日本で最も読まれた日記の一つであり、数多くの読者に影響を与えました。
 しかし日記は彼女の人生全てではありませんし、自らの周囲の状況についても一部しか書かれていません。その個人的な視点での記述は、読者にとって多くの疑問が浮かんでくるものでもありました。
 そこで本ホームページでは彼女が影響を受けた事柄に関する事実や彼女についての証言を集め、できるだけ人物像に近づけるようにしました。
 それも二十歳で自殺した女子学生として評伝するのではなく、日記に従って段階的にたどれるようにしました。過程を知ることによって彼女の個性を理解できると考えるからです。もとより日記における客観的事実に関する記述は正確であり、結果的に本ホームページはその記述を補う形になっています。
 読者にとって身近に感じられるように、写真や地図の多用、ゆかりの地の紹介なども徹底しました。一方で、仮説や想像、フィクションは一切ありません。推測もできるだけ排しましたが、推測が避けられず、かつ極めて有力と判断できる場合だけ慎重な表現で記しています。
 予断を持たずに真実を示すことこそ読者の多くが求めるところと確信しています。

 取材・調査・研究は関係者のご協力なしにはありえません。これまでに話を聞いた方は高野さんと直接の面識があるだけでも数十人に上っています。本当に感謝しております。ホームページをご覧になった方からメール等で頂きましたたくさんの励ましの言葉も力になりました。

 今後ともよろしくお願いいたします。(2018年6月)


残る時間の中で


 新型コロナウイルスの感染拡大の中で、遅れてきた更新がさらに厳しいものになっています。

 読者の方のご期待に応えられるよう努めてきたつもりでしたが、現下の状況で取材等がままならず、重要な部分で納得できる詰めの作業ができないのが実情です。
 関係者の一層の高齢化で残る時間が限られる中ではありますが、少しでもタイミングを見出しながら進めていきたいと思います。

 読者の皆様とともにこの厳しい局面を乗り越えていきたいと思います。ご海容をお願いいたします。

 2021年8月 東京・中目黒で 編集人 N. Kitamoto