高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 1月25日(土)
 何度も話し合いが行われた。これが真実だといって幾つかの事実が出される。

 この段落(ブロック)の文章は日記帳ではなくメモ書きされたものである。

 ビラや立看で知るのが唯一の情報、事務室の掲示にしろ、大学のどこの部分で決ったのかがわからぬ決定が出される。試験延期、五者会談。

 学部五者会談は、各学部で1月21日(火)夜から翌22日(水)未明まで行われた。
 文学部長の林屋辰三郎らは連名で「1月19日中川会館内の学寮委員(佐々木補導主事)と連絡がついて以後、文学部教授会は、事態を大学独自の方針をもって、話合いにより封鎖を内部よりとかせる平和的解決を主張することに意志を統一した。この主張は1月20日の全学集会における乾教学部長以下10名の学寮委員による「われわれの決意」の趣旨とも相通ずるものであり、同21日にいたり、一旦は全学(学内理事会・各学部教授会)の基本方針となったものである。しかるに、21日午後6時10分よりはじまった拡大補導会議で寮連合との話合いの具体化についての討議に入ったところ、学友会執行部が各学部拡大五者会談の開催を要求し、ついに拡大補導会議を中断、同8時ごろより各学部において拡大五者会談が開かれるにいたった。この拡大五者会談でわれわれは文学部教授会の方針を堅持し、翌22日の午前3時15分に至った。その間、教職員組合及び学友会は異例な拡大学園振興懇談会の緊急開催を要求し、同4時ごろ研心館3階において拡大学園振興懇談会が開催された。
 この拡大学園振興懇談会において明らかになったことは、各学部とも拡大五者会談などにおいて、既定の方針を全面的あるいは部分的に撤回または譲歩し、話合による平和的解決の方向は全学的にみてきわめて困難なものとなったことである。このような情況にもかかわらず、文学部長は2時間に亘り最後まで文学部教授会の所信を表明しつづけたのであるが、拡大学園振興懇談会の最終局面において、大学側を代表して武藤経済学部長理事は、学友会に結集する学生の力に依拠し、五者共闘で確認された方針ですすむ旨の発表を行い、文学部の一貫した主張を切り捨てる態度を表明したのである。
 ここにおいて、文学部教授会の意向が全学に反映される道をふさがれ、文学部長および学部主事・補導主事の執行部三役としては、文学部教授会に対して役職上の責任を感ずるに至った。それとともに、事態の解決のための基本的な立場─話合いによる平和的な解決─の重要性を強調しようと考え、立命館に職を奉ずるものの最終的な抗議の意味をこめて本職の辞表を提出した次第である」(「私たちの辞職の経緯─文学部旧三役」『立命館学園新聞昭和44年2月10日』(立命館大学新聞社、1969年))と当時の事情を説明している。

 1969年1月25日(土)に全日本史闘争委員会(全共闘)と日本史クラス有志(民青系)がそれぞれアジビラを出している。
 全ての争点を構築論
 学生が大学に対する革命的姿勢を強化すればするほど大学当局は自らの理念と権力において、いっそう内容なき暴君となる。
 立命理念の幻想への確執、歴然たる暴力の行使、すなわち、「新聞社占拠」、「学館襲撃」、「中川会館武装襲撃」事件において暴露された大学当局の現在の姿が、それなのだ。立命体制においては 教学内容から人事、財政決定権まで彼ら民青=日共の支配装置として成立させられている。
 現在、この立命には所謂教育はない。我々の運動はだから、学生自身が全く今までとは異質の意義をもって実像を結ぶ「教育の内容」を今、大学に成立させて行く必要がなる。
 我々が創造しつつある「運動体大学」の運動的情況、教学的情況は学生の議論の蓄積という実態によって、形式主義者達の「手続民主主義」を一切無価値なものとする。さらに我々は民主主義概念の範囲内で表現されつくせないものを創造しようとしている。それは遠い遠い成長の道程を幾千万の苦悩を自ら背負って、全く違つた異質の概念の創造に向って歩んで行くことなのだ。
 我々がここで創造すべき大学を「運動体大学」と敢えて断言したのは、それが民主主義・大学自治、学生自治等死せる言葉によつてイメージできえぬ大学像を対象化せんが為である。その大学は社会存在としては反体制運動の一翼を担い、自己の存在原点に関わった変革性志向の教育を行なう大学である。
 現在、旧日本史専攻には、我々学生が存在しているのみであり、大学教育内容を決定し、充実し、具体的な物質的基盤に転化する全展開の主体者と我々はなり得る。
 先に我々が提出した「研究室自主管理宣言」は我々の運動が唯一の存在基盤を拡大再生産し得る。すなわち自主カリキュラム、自主講座、自主ゼミ、学習会等教学体系の内容の具体的プランを自主管理下に徹底的に討議する場として研究室を創造しようとするものである。
 だが、断じてそれは案だけのものではない。我々は我々が考え得るすべての意見、イメージを続出させ自主管理下徹底的な討論を継続するのだ。白熱した議論の継続体の存在は即自的に大学革命運動の組織となり得るのである。
  旧立命体制の幻想の中で容易に自己の立場を容認しすぎていた我 々の意識はあまりにも、与えられる教育に泥みきっている。我々の継続された議論は、そうであった我々の存在基盤にまで降下し、重たき足梏を対象し得たものでなくてはならない。その内容は没主体的な学生に対しては、彼の感性と理性をして、その没主体をたちまち羞恥の形で内在化させるものとなろう。また我々の創造の原点を論破することのでき得る反革命分子も堂々と参加すればよい。我々の自王管理の場は全ての人々に開放されているのである。
 我々の運動は、研究室自主管理の内容とそこかけ生まれる展望を生命線とする。
 我々はすべての文字部専攻から全学的段階へ、すべての人々を結合した運動体を組織し、その展望を実現化すべきであろう。さらにはいまだ沈黙の中におり覚醒せぎる者は早急にその眠りから醒めよ。学友諸君!自ら原点を対象化せよ!自ら組織化せよ。
  全日本史闘争委員会
  日本史クラス有志
 学友のみなさん、日本史クラス員のみなさん!
 職員から職場を奪い、試験の延期をはじめ、大学運営のマヒをもたらしているこの中川会館封鎖を許しておくならば、後期試験入学試験の中止、卒業延期に発展し、学生浪人の発生さえあやぶまれます。
 寮問題は、学校当局がこれまで寮生の切実な要求に対し、正しく対処してこなかった点に第一の問題があるが、さらに重要な問題は、そうした大学の誤まり不十分さを口実にした封鎖は学生、教職員の利益に全く反する不当な行為であることです。寮連合の8項目要求の中には、正当な要求も含まれているが…必ずしも正しくない。
 8項目貫徹と、理事会への抗議という中川会館封鎖は、民主主義のルールからいって全く不当なものです。私達は、ただちに中川会館封鎖を解除し、寮問題をクラス討論、学振懇、全学協での検討、決定という正しい方法で解決していくべきであると思います。
 我々立命人の共同の財産であり、大学運営に極めて重大な影響を及ぼす中川会館の封鎖を解除するには3つの方法しかありません。第一は機動隊の導入です。第二は、彼らの暴力に屈服し、要求を無原則的にのむことです。第三は、大学人自らの手によって実力行使も辞さないだけの断固たる行動に立ち上り、封鎖解除することです。 第一は東大で、第二は同志社に見られるごとく、真の解決にはならない。残るは京大のごとく、第三の方法あるのみ。
 全ての学友、日本史クラス員のみなさん!
 中川会館封鎖に反対し、全大学人の団結した力を基礎に、あらゆる英智をしぼって断固として、早期に封鎖を解除させようではありま せんか!
 学友のみなさん、日本史クラス員のみなさん!
 日本史専攻ではもう一つ重大な問題が起っています。それは一部の学部学生、院生による日本史研究室の「自主管理」の問題です。
 そもそも日本史研究室は、教官、院生、学生の三者が利用するも のであり、その管理、運営に関して三者があたることは当然のことです、私達は、クラス員の誰もが研究室を利用できるために、教員、院生、学部学生の三者の各々の正式機関による三者共同管理を確立することを提言します。
  学友のみなさん、日本史クラス員のみなさん!
 「全共闘」一派の暴力に属することなく、大学当局の暴力屈服主義を許さず、断固我々の手で中川会館の封鎖を解除するため一層奮闘しようではありませんか。そして「全共闘」一派によち清心館封鎖、全学封鎖のたくらみを粉砕し、日本史共同研究室をクラス員みんなが利用できるようにするため、三者共同管理体制を確立しようではありませんか!

 全共闘は全学協路線粉砕を叫び独自の大衆団交集会をもつ。

 文学部闘争委員会(全共闘)は1月25日(土)に学部側と団交、文闘委と文学部三役の合意で27日(月)に再び団交することになった。

 教授会が実力排除のための角棒ヘルメットの費用の一部を出すなど、

 文学部教授の梅原猛は「これは大学の責任者が角材や黄色いヘルメットを買って学生たちに与えている事実をみても明白で、ここには大学本来の使命をみることはできない」(「失った対話の場─一部の人が〝制圧〟」『京都新聞昭和44年1月25日』(京都新聞社、1969年))と話し、文学部教授の奈良本辰也は「大学は、すでに攻撃用の諸器具を用意して学友会に与えているのである。それらはすべて、学生の授業料によって購入された。そして五者共闘なるものが配布した作戦の指導要領には、ことこまかく指令が書き込まれているのだ。私の目を驚かせたのは、その中に「人命云々」という文句が二か所も出てくるのである」(奈良本辰也「立命館大学教授に未練はない」『潮昭和44年4月号』(潮出版社、1969年))としている。
 朝日ジャーナルは「22日夜、大学当局から黄色ヘルメット500個が配給され」((鈴木沙雄「特集・新局面を迎えた大学問題─関西にみる東大紛争の衝撃」『朝日ジャーナル1969年2月9日号』(朝日新聞社、1969年))について、「「大学当局から黄色ヘルメットが配給」とあるのは、「学友会が購入」に改めます」(「編集部から」『朝日ジャーナル1969年3月2日号』(朝日新聞社、1969年))と訂正しているが、学友会の購入は形式にすぎず、学友会と通じた大学側が費用を出して実質的に提供したとみられている。

  内部資料とされるメモでは大学側は1月22日に下記の調達を行った。
 民青・五者共闘の実力封鎖解除の物質的保障の内容は以下の通りである。
  ベニヤ板(12ミリ) 新品100枚
           古品 48枚
         清水建設衣笠現場より借用
  コンクリート用パネル 古25枚
         山本工業より借用
  有刺鉄線 1巻 銭茂金物店より購入
       3巻 永井金物店より購入
 以上の資材とその他若干の物を本部として購入することを決定。武藤本部長の指示で、管理課を含めて相談し、発注。(午後0時30分購入、1時30分物品入手)
☞1969年1月23日「ヘルメットに角棒をもった民青行動隊」

 寮連合会が理事会と直接団交をするなど、

 1月23日(木)、「大学理事会が事態解決のため同日午後、寮連合との〝団交〟に応ずる方針を決めた。
 学生自治会としての学友会(代々木系)を通さず、大学側が寮連合と直接話合うのはこれがはじめて。これに対し学友会は「全学生の意思を裏切るものだ」として強く反発している。
 この大学側の方針は、22日夜、中川会館の封鎖を解除しようとした学友会の実力行動が、ノンセクトの捨身の抵抗で成功しなかったため決ったものとみられている」(「反代々木系と〝団交〟─立命館大、方針きめる」『朝日新聞(大阪本社)1969年1月23日(夕刊)』(朝日新聞社、1969年))

 寮連合と理事会との団交は1月23日(木)正午から中川会館前で開かれる予定で、約2000人の学生が集まったが、封鎖解除をめぐって両者の予備折衝が決裂し、同日午後6時に開催されないことが決まった。
 大学側は午後6時、わだつみ像前で「中川会館封鎖解除要求全立命集会」を開き、約1000人が集まった。この中で末川総長は「封鎖には反対である。諸君の理性と勇気を期待する」と述べた。寮連合は中川会館のマイクで集会に対する抗議の声を上げた。
 寮連合と理事会との団交は結局、1月29日に開かれることになる。
☞1969年1月30日「学校は大衆団交で教室はもちろんのこと」

 また教授が相ついで辞表を提出するなど、立命は実質的に崩壊しつつある。

 「反日共系学生が占拠する中川会館の封鎖解除をめぐり、日共系学生の実力行使から流血の事態を招いた立命館大学で〝実力路線〟に反発する教授たちの辞表提出が相ついでいるが、24日午前の奈良本辰也教授(日本史)に続き、同日午後には梅原猛教授(哲学)が大学当局に辞表を提出した。
 先に辞表を提出した林屋辰三郎文学部長、山本幹雄教授、北山茂夫教授、佐々木高明助教授と合わせ、文学部はこれで5教授、1助教授を失うことになり、同学部は崩壊寸前の危機に陥った」
 「文学部は教授から専任講師まで教員スタッフは42人で、このうち7分の1を失うに至った。とくに同学部にとって手痛い打撃になっているのは、辞表を出した教授クラスが立命文学部を背負ってきた〝看板教授〟であること。今後、文学部の教学面に与える影響はきわめて大きい」(「ピンチに立つ立命大─相つぐ教授退陣」『京都新聞昭和44年1月25日』(京都新聞社、1969年))とされ、高野悦子の日本史学専攻はまさにその渦中だった。

 「辞表提出について林屋教授は「21日夜から22日朝にかけて開かれた拡大五者会談や拡大学園振興懇談会で、大学側は封鎖解除のための平和的解決を主張したのに、学友会や各学部自治会側から学校の対策がなまぬるいと追求され、平和的解決の見通しが薄くなったため、責任をとるつもりで提出した」といっている」(「封鎖問題から引責辞表提出─林屋教授ら」『朝日新聞(大阪本社)1969年1月24日』(朝日新聞社、1969年))
 正式の退職は、奈良本辰也が3月末、北山茂夫と林屋辰三郎は5月末になっている。一方、この時に大学を辞職した梅原猛(1925-2019)は2014年4月、学校法人立命館が社会人を対象にしたリーダー育成講座「立命館西園寺塾」の最高顧問に迎えられた。
☞1969年2月1日「教授のいない大学に」

 十三日に寮連合が大衆団交を行ってから急速に事態は変転している。

 「ズバリいってここ数年、立命大を牛耳ってきた日共系勢力に対する反日共系の挑戦」「立命館は日共系の勢力がつよい。だから、学生自治組織の学友会に対抗するためには、少数派の反日共系各派が足並みそろえて、拠点とする寮問題で、封鎖を背景に自分たちの主張を訴えなければならないが」「反日共系やそれに近いノンセクトの学生たちの不満がたまってこんどの紛争でも一般学生のかなり強い支持がえられた」(「新局面迎えた京の大学紛争」『京都新聞昭和44年1月30日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))。

 十八(土) 研究室会議
 二十(月) 学友会の実力排除失敗

 日本史研究室会議は1月18日(土)に開かれ、研究室の事実上の管理者である文学部助手の高野澄が教授会に対する辞表を提出した。
 「今度、立命館で起こった紛争である。私は、昨年10月から内地留学であった。だから、直接にこの紛争に関係はしていない。中川会館封鎖が始まったころは、私は熱海で原稿を書いていた。年来の友である林屋君を一人で苦しませて、こんなことでよいのかなと思っていた。
 しかし、そんなある日、私は研究室の助手をしている高野君の突然の来訪をうけた。彼は熱海までやってきたのである。そして、「先生には申しわけありませんが、私はこの事態に対して黙しているわけにはまいりません。昨日辞表を出しました」という報告を聞いた。少し早まったのではないかと思って、京都へ帰ってくると、林屋君も辞表を出していた。
 私は、林屋君のような温厚で、そして忍耐強い人間をここまで追いやったものに対して、深い憤りの気持ちを感じるとともに、今こそ、そのあとを追うべきだと思ったのである」(奈良本辰也「定年退職を早めるの辞」『京都新聞昭和44年1月28日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))。

☞1969年2月18日「北山先生が辞表を出した理由として一番の原因だったのではないかと思われるものに十八日の研究室会議がある」

 二十一(火) 夕刻北山氏辞職

 文学部教授の北山茂夫は1月20日(月)、辞表を提出した。「北山教授は、大学当局と、日共系が執行部の主流を占める五者共闘(一、二部学友会、教職員組合、生協、生協労組)の共闘形式が表面化するとともに、このままでは大学当局が封鎖解除に実力行使を肯定する方向にある─とし、辞意に至ったという」(「立命大、教授ら相つぎ辞表」『京都新聞昭和44年1月23日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))
 「20日午前の教授会に出席した北山は、学友会が実力行使に出ないという保証をとりつけていない以上、教職員が流血にまきこまれるおそれがあるとして、大学当局の方針に反対した。その最中、衣笠専任講師から日本史研究室封鎖のメモを手交された北山は、この挙を専攻主任を無視したものと受けとり、直ちに辞意を表明した。別室で末川総長宛にしたためた「退職願」には、「私儀、本日の大学当局が決定した方針に従うことができませんので、退職いたしたく存じます」と記された」(松尾尊兊「立命館の日々」『北山茂夫 伝記と追想』(みすず書房、1991年))。

 二十二(水) クラス討論、学外者立入り(一〇〇〇名東京→京都)

 「1月22日に全共闘系の日大生1000人が京都に来る」という情報が流れたが、実際には確認されていない。経済学部長・理事の武藤守一は1月29日(水)に開かれた寮連合と理事会との団体交渉で「日大生1,000人が来洛するという学友会のデモに躍らされた」と発言している。

 二十三(木) 専攻別集会、研究室会議、二十三、二十四の試験延期

 立命館大学の1968年度後期試験は、各学部一部(昼間部)が1月23日から、二部が1月20日から行われる予定だったが、大学内の混乱に加えて「一部の商業新聞による試験延期のニュースや事務室の問いあわせに対する返答のあいまいさで、連絡不十分のまま試験を実施することができなくなった。 いずれも24日までの分は試験をとり止め、以降の分についてはそのときの状況により再検討することになった」(「一・二部後期試験、数日間延期さる」『立命館学園新聞昭和44年1月25日』(立命館大学新聞社、1969年))

 二十五(土) 試験延期(一月末)クラス討論(日本史教授の辞表提出理由を聞くことを決定、有志四十八名)、拡大五者会談

 文学部では25日に五者会談が開かれたが、学部長代行が出席しない事態になった。

 ウラ寂しい気持で電車に乗った。

 このあと四条河原町で映画館に入った。
『ローズマリーの赤ちゃん』

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