高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 4月 4日(金)
 一日に昌之がきて、いい気になってしゃべりすぎた。

 高野昌之は、高野悦子の弟。栃木県立大田原高等学校3年生(17)。
 高野昌之は、元規制改革担当大臣で参議院議員の渡辺喜美と幼稚園から高校まで同窓で、高校入学前に渡辺喜美らとともにエレキバンド「The Boze(ボーズ)」を結成した。高野昌之はリズムギター、渡辺喜美はリード・ボーカルとタンバリンを担当した。バンド演奏の練習は、毎週土曜日の午後に高野家でしていたので、「京都から帰郷した高野悦子が彼らにジュースやお菓子を運んでくれることもあった」(佐野眞一「渡辺喜美─この男を信じていいのか」『文藝春秋2010年9月号』(文藝春秋、2010年))
☞1969年1月2日 「昌之は」

 鈴木は自分が独りであることを知っている。

鈴木

 引越の後片づけも終らぬ乱雑な部屋の中、

下宿(川越宅)

 引越先の川越宅は、京都市中京区下ノ森通丸太町下ル西ノ京左馬寮町にあった左官業、川越盛次宅。部屋は2階である。
川越宅下宿外観中京区地図
 『二十歳の原点』巻末の「高野悦子略歴」では「丸太町御前通り」と記述されているが、川越宅は丸太町通にも御前通にも面していない。
 ただ最も近い市電の停留場は丸太町御前通だった。

 下宿近くを通っていた国鉄山陰本線は、当時は単線・非電化で高架でなく地上を通っていた。
高野悦子の自殺
丸太町御前通地図下宿周辺空撮
 大家の川越盛次の息子、川越健史は「高野さんは、口数も少なく、決して明るい子ではなかった。
 親しく言葉を交わしたわけじゃないから印象でしか言えないけど、ウチの下宿に来た時、思いつめてかなり疲れきった様子だったな」
(桐山秀樹「夭折伝説」『Views1995年9月号』(講談社、1995年))と話している。
川越宅跡 また高野悦子と同年に生まれた健史は、高野悦子の自殺が学生運動に身を投じた末の挫折という見方に疑問をはさみ、「学生運動に参加してみたものの、自分は体制側の家に育ち、その親の援助のもとで運動していた。それを負い目に感じ、できるだけ目立たなく生きていこうとしている感じだった。ただ、自殺は、何かもっと個人的なことが原因だったような気がする」(桐山秀樹「夭折伝説」『Views1995年9月号』(講談社、1995年))としている。

 川越健史は、高野悦子が下宿した川越宅を自らのデザイン事務所とした(写真上より後のことである)。高野家との交流は続き、高野悦子の両親を描いた『Tの両親』と題した油彩画に「空虚な現実の流れに身を長く委ねた私達より、君の生きた時代にリアリティを感じるのは一体何故だろう」(左馬寮一著・川越健史編『我が青春のシュルレアリスム─左馬寮一の世界─』(左馬デザイン、1989年))という言葉を残している。左馬寮一は川越健史のペンネーム。
 川越宅の建物は現存せず、別の住宅になっている。
原田さんの下宿(嵐山)

 この近くには菓子屋は沢山あるが、八百屋は全くない。不便! 質屋が二軒もあるので、これから何やらお世話になるだろう。

 当時は、丸太町通沿いに菓子屋が軒を並べるとともに、庶民的な地区ということもあり質屋も点在した。
周辺の菓子屋と質屋下宿近くの饅頭店
 このうち京都市上京区丸太町通御前東入ル下之町の饅頭・広田は、広田商店として現存している。

 煙草とウィスキーを買ってゆっくりと楽しもう。

 ウィスキーは、サントリーホワイト。当時840円。
☞1969年4月15日「ホワイトを四、五杯のんで眠ろう」

1969年 4月 5日(土)
 「孤独の闘い」を読んでいる。

孤独のたたかい表紙 「孤独の闘い」は、『孤独のたたかい』全集・現代文学の発見別巻(學藝書林、1969年)のことである。750円。
 帯には「文壇の低迷を打破る問題作の砲列!」「商業ジャーナリズムの規準にとらわれなかった─、戦前・戦中・戦後を通じて、徹底調査された─、無名に眠る戦士たちは、つぎつぎと呼びおこされた─、それは今こそ、われわれの眼をさますためによみがえった─」「ここに、無名戦士の、または酬いられることの薄かったかずかずの作品を提示できることに、深い誇りを感じます。この全集発足当初から最大の期待と関心をあつめ、また実に広範囲の御支援をいただいたことに対し、これがわれわれの成し得たことであり、これ以上はなしえなかったという限界がここにあります。ここに商業主義に毒されない烈々たる文学の火を見て下さい」と書かれている。
 「文をなす者にとって「世間」とは何であるか。文章はその隈々にいたるまで精神の運動そのものであるから、本来それが読まるべき状況を顧慮しなければならぬということはない。おのれ自身をもふくめて一人以上の良質の読者を期待すれば足るのである。多数の支持者を得なければ成りたちえぬ事業とは本質において異る。読者の多寡は作品の価値に関しない」(八木岡英治「この本のなりたち」『孤独のたたかい』全集・現代文学の発見別巻(学藝書林、1969年))
「湖のほとりに立つ私はそこにある岩や水、
 木々の何ものよりも古く、年老いている、
 地球が傾き、陸地が傾き、
 原始林が徐々と水底に沈んでゆくのを見ていた私だ、
 私の心の奥底、意識の水の下には
 沈み埋ずもれている限りない過去の林。」
(竹内勝太郎「氷湖」『孤独のたたかい』全集・現代文学の発見別巻(学藝書林、1969年))といったくだりのある詩や小説など14人の作品が所収されている。

 「知ろうとするものは存在し、知ろうとしないものは存在しない。おまえはおまえ自身を知らない」

☞1969年3月26日「知ろうとすることは存在し、知ろうとしないことは存在しない。おまえはおまえ自身を知らない」(パゾリーニ)

 きのう鈴木の幻想がつきくずされ、

☞1969年4月4日「私はあまりに性急にあなたを求めすぎたのだ」

 「野火」の朗読をきいてから戦争における人間の体験に関心をもった。

☞1969年3月25日「FMの朗読で「野火」をやっている」

1969年 4月 6日(日)
 帰りに思いきりソナチネをひいて大声で歌をうたって着換え、いつものように歩く。歩道の靴音をきき、車のライトをみながら鼻歌をうたって帰る。

丸太町通地図
☞1969年3月25日「ソナチネだの」

 どこかでウィスキーをのみたかったが帰りが遅くなるのでやめる。

 当時、女子がウィスキーを外で飲める場所として、洋酒喫茶という業態があった。
☞1969年4月15日「オンザロック」

 ヒトリデ サビシインダヨ

☞1969年4月5日「きのう鈴木の幻想がつきくずされ、独りであり」

1969年 4月 7日(月)
 一六〇〇〇円で生活を建て直せ。

 4月5日に受け取ったアルバイトの賃金である。
☞1969年3月8日「一八〇〇〇を得るということは大変なことですなあ─」
☞1969年4月4日「明日は給料日」

 〝とびかう鳥よ おまえは自由〟─「坊や大きくならないで」より─

 「坊や大きくならないで」は、男性3人グループであるマイケルズが歌う曲である。ベトナム戦争反戦を意識した、子守唄をモチーフにしたベトナムの曲の日本語版で、浅川しげるが作詞している。
 同曲シングルは、日本コロムビアで1969年2月1日発売され、売上14.3万枚、オリコン最高13位。
 歌詞の引用はマイケルズの歌う曲からであり、高石友也の歌う方ではない。『二十歳の原点[新装版]』(カンゼン、2009年初版)95頁脚注の「高石友也の代表作のひとつ」はこの部分には不適切である。
☞1969年4月11日「高石友也の「坊や大きくならないで」を買う」

1969年 4月 9日(水)
 「第二の性」を読んだら、どうしたって(性交で一体になったとて)人間は独りなんだと思った。

第二の性の表紙 ボーヴォワール著生島遼一訳『第二の性Ⅰ』新潮文庫(新潮社、1959年)のことである。「人は女に生まれるのではない。女になるのだ─男の歴史によって創られた女の神話をうち砕き、人間としての存在の確立を説く」。
 「「第二の性」は歴史的、哲学的、社会的、性的、あらゆる角度から女の生き方を綿密に検討した新しい女性論である」(生島遼一「解説」ボーヴォワール著生島遼一訳『第二の性Ⅰ』新潮文庫(新潮社、1959年))
 シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908-1986)はフランスの作家、哲学者であり、サルトルの事実上の妻としても知られる。
☞1969年4月13日「「第二の性」もストップしているな」
☞1969年6月22日②「「第二の性」は奥深く並んでいるけれど」

 独りであることが逃れることのできない宿命ならば、己れという個体の完成にむかって、ただ歩まなければならぬ。

 「他人というものが入って来てはじめて、「他者」としての個体を成立させることができる」(ボーヴォワール著生島遼一訳「幼年期」『第二の性Ⅰ』新潮文庫(新潮社、1959年))
 これによって「自己」が自己になるというのが実存主義の基本的な考え方の一つである。

 鈴木は十年勤務の社員(藤田観光では、社員、従業員、アルバイト、パートなど身分制をとっている)。

 藤田観光は、ホテルやレジャー施設を運営する企業グループである。京都国際ホテルは、藤田観光グループのホテルである。
京都国際ホテル

 明日の時限ストではご説得係でさあ。

 1969年度の賃金交渉をめぐる春闘で京都国際ホテル労働組合は最初に第一波と称して3時間の時限ストライキを行った。長期化に備え組合員の総決起集会を開くなど態勢固めを行った。

1969年 4月10日(木)
 八時半ごろ目がさめ、FMのシフラのピアノをききながら起きる。

 NHK-FM4月10日午前9時00分~:家庭音楽鑑賞「リスト『ポロネーズ第2番』」である。
 ハンガリー出身のピアニスト、シフラ(1921-1994)は、とくにリスト作品の演奏で有名。

 手紙はなく物干し台にのぼり雨にさらされたすべり台に横になる。見えるものは隣家の屋根と、くすびた壁と軒にせせこましくかけられた洗濯もの。

 周囲は、桂川や田園風景のあった前の原田さんの下宿(嵐山)と異なり、民家が密集している地域である。

 とにかくおどろかされたのは彼女のシンの強さ。とことんまでやろうという彼女の血気である。

 那須文学社版の記述。仕事先の小沢さんという人は、女性である。
 以下、「何にもない空っぽと感じていること…」に続く。

 何にもない空っぽと感じていること自体一つの大切な私の感情であるが、

☞1969年6月22日「空っぽの満足の空間とでも、何とでも名付けてよい」

 私は以前詩人になりたいと思った。

☞1969年2月5日「私は詩人になりたいと思うときがある」

 街に出かけよ、山に出かけよ

 寺山修司の評論集『書を捨てよ、町へ出よう』(芳賀書店、1967年)および、同名の演劇作品(1968年)をもじったものである。

 京大や立命の学生運動にアナーキストたちが刃物を使用し出した、と京都新聞が一面にセンセーショナルに書いている。

アナーキスト記事 『京都新聞』ではなく、『夕刊京都昭和44年4月10日』(夕刊京都新聞社、1969年)の1面である。
 『夕刊京都』は、当時京都で発行されていた夕刊紙であり、『京都新聞(夕刊)』とは異なる。1982年に廃刊となった。
 4月「9日、京大大学院文学研究科の入試妨害事件で、同大学全学共闘派(反日共系)の学生が使用する目的で持ち込んでいたとみられる、猛毒性劇薬「クロロピクリン」が押収された。昨年2月と6月の成田空港設置反対闘争で使用、警官が重軽傷を負った、その劇薬が京の大学紛争にも登場したわけ。
 一方、立命館大ではさる8日の学友会(執行部代々木系)と全共闘派(反日共系)の衝突で、アナーキストとみられる学生がナイフをふり回し切りかかるという事態が起こるなど、大学紛争は過激分子の凶悪化が目立ち、しかもゲリラ戦法を展開するという最悪の段階にはいった」(「大学紛争、凶暴・ゲリラ化へ─劇薬やナイフも登場」『夕刊京都昭和44年4月10日』(夕刊京都新聞社、1969年))

 彼女は井伏鱒二の「山椒魚」の話をした。
 そこに一匹のエビかなんかが入ってきてまたまた出られなくなり同じ穴のムジナとしてふたりで過すのである。

 「山椒魚」は井伏鱒二(1898-1993)の有名な短編小説。ただ小説の中では穴にエビも入ってくるが、ふたりで過すのはカエルの方である。

 知ろうとするものは存在し
 知ろうとしないものは存在しない
 おまえは おまえ自身を知らない
  ─パゾリーニ─
 大空を飛び交う鳥よ
 おまえは自由
  ─坊や大きくならないで─

 那須文学社版の記述。以下、「私はこれから長い旅路に出かけるのだ」に続く。
 なお「大空を飛び交う鳥よ」は、正確な歌詞は「青空とびかう鳥よ」である。
☞1969年4月7日「〝とびかう鳥よ おまえは自由〟」

 エディプス・コンプレックスをもちながら男は女を求め、

☞1969年3月31日「パゾリーニは「エディプス王の物語」を彼のエディプス・コンプレックスを克服して作ったという」

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