NHK-FM4月16日(水)午前9時00分~:家庭音楽鑑賞「バッハ『バイオリン協奏曲1番』」、午前10時40分~:朗読「白鯨」。
山本太郎「かるちえ・じゃぽね」『山本太郎詩集』現代詩文庫(思潮社、1968年)。
☞1969年4月22日「「山本太郎詩集」」
日大全学共闘会議書記局『日大闘争』(五同産業、1969年)は日大全共闘の活動をまとめた写真集。当時500円。
J.ブザンソン編広田昌義訳『壁は語る─学生はこう考える』(竹内書店、1969年)。当時500円。1968年パリ五月革命について当時の写真と学生らによって壁に書かれたメッセージで構成している。
「荒れに荒れる学生エネルギーの爆発は何が原因か?日本はもとより世界各国を席捲しつつあるスチューデント・パワーの実力行使は、現権力機構、現体制への抵抗から更に破壊へとエスカレートしつつある。本書に収録された多数の《落書き》は1968年5月フランスの学生革命の際に、建物や舗道に書きしるされた学生自身の言葉である。これらの溢れ出た数々の言葉は、いかなる註釈や説明よりも全ての学生行動の原因を端的に表明している!」。
当時の「居酒屋」の用法で言えば、ろくようは居酒屋にあたる。
☞ろくよう(六曜社)
☞1969年2月22日「今「反逆のバリケード」を読んでいる」
『アウトサイダー』の表現を使った記述である。
「「きょう母が死んだ。いや、きのうだったかもしれない。たしかなことはわからない。」
この無関心な気分は、小説『異邦人』全編にたえず流れている。この小説もまた、『地獄』や『嘔吐』と同じく、主人公の日記という小説技法上の形をとっている、ムルソーはアルジェリア人である」(C.ウィルソン著福田恒存・中村保男訳『アウトサイダー』(紀伊国屋書店、1957年))。
☞1969年4月15日「こわごわと「アウトサイダー」を読んだ」
京都では16日午後からの雨が17日午前まで続いた。17日午前2時の降水量は5mm。
☞1969年3月29日「メイン・ダイニングとしては施設も貧弱だし」
労働組合は、翌4月17日(木)午後1時からのストライキを設定していた。
☞1969年4月13日「十五万円送ったとのこと」
親からの金を今、授業料に払い込まないということ。
中核派と社学同は、この時点で立命館大学全共闘を構成する新左翼の主な派。
両派を含む京都府学連は16日午後、4・28沖縄闘争への〝京都府学連統一行動〟として京都市役所周辺等をデモ行進している。
☞1969年2月17日「十数人の中核が雨にぬれ意気消沈した様子でデモッており」
☞1969年2月6日「社学同が入試阻止をもちだす」
「たたかいます たたかいますぞボカァ」(山本太郎「かるちえ・じゃぽね」『山本太郎詩集』現代詩文庫(思潮社、1968年))の転用である。
☞1969年4月23日「ぼかあ 闘ってますぞ」
京都国際ホテルの従業員入り口は、油小路通二条下ル側にあった。ドアを入って左側に地下1階に通じる階段がある。座っていたのは、スト破り防止のための京都国際ホテル労働組合のピケッティングである。
1969年度の賃金交渉をめぐる春闘で組合側は、第二波の行動と称して4月17日(木)午後1時から18日(金)午後1時までの24時間ストに突入した。17日は1969年春闘の統一スト設定日でもあった。
☞京都国際ホテル
油小路通側の1階従業員入り口を入って左の階段を下りると、従業員用スペースになっている。通路の右側に従業員食堂、左側に女子ロッカー室がある。通路をさらに進むと、2階や厨房や屋上のパントリーにつながるエレベーターや階段がある。
春闘の時期、従業員食堂には会社側、組合側それぞれの見解を説明するビラが掲示してあった。
☞1969年5月3日「バイト先の従食で隣りに坐った男の人が」
☞1969年5月5日「従食を出たときポパイ氏に会う」
メイン・ダイニングではなく、従業員食堂の前の廊下。鈴木がいたのは従業員食堂である。この時、メイン・ダイニングは誰もいなかったとされる。
したがって、お客のいなくなったダイニング(二階主食堂)は4月17日午後9時以降である。
☞鈴木
☞1969年3月25日「ソナチネだの愛の讃歌だの」
☞1969年3月16日「「エリーゼのために」第一楽章をひいて」
☞1968年4月17日「居酒屋「ろくよう」で隣に坐ったあんちゃんに」
京都国際ホテル労働組合は当初4月18日(金)午後1時までの24時間ストを予定していたが、戦術を強化し無期限ストに切り替えた。
そのうえで労働組合は4月18日午後4時でスト解除指令を出した。結局、通算27時間のストとなった。この時点で会社側は第二次回答としてベースアップ5,173円、住宅手当1,000円を出すとともに年間一時金4か月の保障を示していた。
「二分の一」は、組合側がベースアップ1万円(+住宅手当2,000円)を要求したのに対して、この段階で「会社側回答五〇〇〇余円」(5,173円)。
☞1969年3月29日「あそこも賃金一万円ベースアップせよ」と春闘をやっている」
☞1969年5月12日「昨日は国際ホテル労組のストライキでした」
この文章の前後から高野悦子と牧野との間で具体的に何が起きて人間関係のもつれまで生じたかを読者がイメージするのは難しい。ホテルでのストライキに対する姿勢といった抽象的なレベルに感じられる。
実際には「昨日」にあたる4月17日、高野悦子はホテルに2回行っている。
1回目は下宿を出て「四時三十分ごろ国際ホテルについた」(①)のである。
ここで鈴木が従業員食堂前の廊下にいたアルバイトの方に来て「裏切るなよ」と言ったことへの〝復しゅう〟として、本来は勤務するはずのメイン・ダイニングでストライキ時間中に〝客〟として食事をして見せつけることを考えたとみられる。
腹を立てたものの、いったんはジャズを聴きたくなって「シアンクレールにいく」(②)ことになった。
シアンクレールから牧野に電話した。食事には金が必要だったためである。牧野も快く呼び出しに応じて、阪急・大宮駅のある四条大宮で待ち合わせをすることになった。
高野悦子はシアンクレールから牧野と待ち合わせた四条大宮へ向かう(③)。この点の記述がないため読者にとって前後関係がはっきりしない形となった。
牧野と会って高野悦子が最初に口にしたのが「ホテルのレストランに食べに行かない?」という言葉だったとされる。
「ホテルまで牧野と歩きながら」(④)話し、二人は京都国際ホテルに着いた。
高野悦子にとってはこの日2回目のホテル到着となる。入り口前で高野悦子の〝真意〟を牧野が察知したとされる。メイン・ダイニングでの食事が鈴木に対する〝復しゅう〟をする意味することである。牧野は奇抜と思ったとみられ、「一緒に食事をする必然性がないから帰る」と切り出して断った。
これが牧野とのもつれとなった。
入り口からメイン・ダイニングまで歩いていくうちに、高野悦子も牧野と一緒に食事をする必然性はないと気付いたとみられる。
結局、高野悦子は〝客〟として一人で食事をすることになった。ほかの客がいなくなる午後9時までいることになる。
その後 「彼女(牧野)からテレ」と電話があったのは4月18日(金)ではなく4月19日(土)だった可能性がある。高野悦子は電話には出なかったとみられる。思い直して牧野の下宿を訪ねようとするが、結局、訪れることはなかったとされる。
☞シアンクレール
☞牧野さん
☞四条大宮
アオキ書店は、京都市上京区烏丸通丸太町角春日町にあった書店。立ち読みしたのは1階である。
地場系の有力書店で、自称「京のブックセンター」。1968年4月に地上4階地下1階のビルになった。
1階は文学書、その他一般書、雑誌。2階は文庫、新書、法律、経済、図書券、岩波図書。3階は専門書、学参、辞書、百科事典、児童図書。4階は催し会場、貸室だった。
現在はマクドナルド烏丸丸太町店になっているが、ビルには「アオキ書店ビル」という店名の名残が表示されている。
☞1969年4月22日「青木書店にいって」
☞マロン(まろん)
☞1969年4月13日「十五万円送ったとのこと」
京都:晴・最高17.5℃最低5.9℃。午後になって北寄りの風が強まり、最大瞬間風速9m。