1969年5月18日付メモの記述。
プチブルは専門用語としては様々な定義があるが、ここでは広く資産家の中産階級という意味である。
日記の記述。「清心館封鎖貫徹!」につながる。
この日は、恒心館で“闘争準備”をしてから日記を書いた。
☞1969年5月24日
このあと中村とのリレーションということになる。
☞1969年6月2日「五・一九」
清心館は、立命館大学広小路キャンパスで文学部が使用していた校舎である。
1957年4月に北東側に隣接する尚学館(研究室棟)と同時に完成した。鉄筋コンクリート地上4階地下1階建てで、名前の由来は「清らかな心」という日本語の用法からと見られている。
☞1969年1月23日「大学院校舎が建てられた時は、清心館や研心館は建てられていなかった」
☞1969年5月12日「清心館封鎖をめぐっての主に畠山さんと前川さんのやりとりをききました」
☞1969年5月29日「清バリ貫徹」
☞1969年2月1日「清心館前での文学部の群衆、ガナリたてる二つのマイク」
☞1969年4月11日「一時清心館前で待ち合せ」
☞元・文闘委リーダー・中村大蔵氏「静かにほほえんでいた彼女」
日記の記述に沿ってフロア別の平面図で見る。
[1階]
1階は玄関、ホール、事務室ロビー、事務室、文学部部長室、会議室、女子トイレ、診療所などがあった。
☞1969年2月22日「清心館には後期試験の時間割がはられてあったが」
☞1969年5月8日「掲示板には新年度のカリキュラムが発表され」
[2階]
2階は1号教室、2号教室、3号教室、資料室、日本史学専攻研究室などがあった。
☞大学同級生女性・岡本さん「高野悦子さんと日本史専攻」
[3階]
3階は5号教室、6号教室、7号教室、8号教室などがあった。
[4階]
4階は9号大教室、10号大教室などがあった。また屋上へ上がる階段踊り場にワンゲル部スペースがあった。
☞1969年5月13日「九号の大教室ではマイクを片手にした教師が」
[地階]
地階は食堂、厨房、喫茶室、食券売場、地下道、売店などがあった。
☞1969年5月8日「生協の食堂は相変らずの混みようで」
清心館があった広小路キャンパスは、現在、京都府立医科大学の一部になっている。
5月19日は立命館大学の前身である京都法政学校の設立認可日にあたるため、大学の創立記念日とされている。当時は設立記念日は全学休講だった。1986年からは平常通りになっている。
全共闘は「大学創立記念日を大学解体記念日に」と呼びかけ、19日を期して全学バリケード封鎖をすると宣言していた。
これに対して大学側は、「現在、全共闘の学生諸君は5月19日の創立記念日を『解体記念日』にせよとよびかけ、『本部(中川会館)奪還』を宣言し、さらに全学にむけて封鎖を拡大しようとする動きをみせている。大学としては(略)いかなる理由があるにせよ封鎖は不当であると考えており、これを絶対に容認することはできない」(「すべての教職員・学生諸君に訴える」(大学理事会、1969年5月16日)という声明を出していた。
民青系は全共闘に対抗した。「一・二部学友会も共同のアピールを発表し、学園の防衛のため18日から20日かけての泊まり込みを全学生に呼びかけた」(『立命館における「大学紛争」とその克服」』「立命館百年史通史二」(立命館百年史編纂委員会、2006年))としている。
立命館大学の文学部(一部)は5月6日から開講した。教授の大量辞職を補う必要もあり、日本史学専攻では非常勤講師に秋山進午、磯博、上島有、掛谷宰平、門脇禎二、高尾一彦、藤沢長治、藤谷俊雄、松山宏、三浦圭一、村井康彦、吉田晶、脇田修を委嘱した。
文学部闘争委を中心とした全共闘は、教授らが何の総括もなしに壇上に登場することは許されないなどとして、開講阻止闘争を行っていた(『〝開講前に総括を〟開講阻止闘争を展開─全共闘』「立命館学園新聞昭和44年5月12日」(立命館大学新聞社、1969年)参考)。