高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 5月27日(火)
 傷の糸のぬける日だ。ウレシイナ。

☞1969年5月12日「病院にいきました」

 きのうも自転車を乗りまわして四条河原町をフラフラ。清水書院で西洋史の五回生に会って「裏窓」で話す。

 1969年5月27日付記述の3店の位置をまとめると下の地図になる。以下、各店順に説明する。
清水屋と裏窓と珉珉当時の四条河原町
 四条河原町は、京都随一の繁華街。
 1970年大阪「万国博を1年後にひかえてホテル、デパートの増改築が急ピッチだが、京の繁華街の中心四条河原町周辺でも、高層ビル建設が相ついでいる。「国際文化観光都市」の顔ともいえるこの一帯は、万国博を機に大きく移り変わろうとしている」(「四条河原町に4つのビル─万国博ひかえ〝京のお化粧〟」『夕刊京都昭和44年2月26日』(夕刊京都新聞社、1969年))状況だった。

 清水書院という名称の書店は、当時の京都に存在しない。この記述は「清水屋」のことである。

清水屋

清水屋 清水屋は、京都市中京区河原町通蛸薬師上ル奈良屋町にあるレコード店。建物は建て替えられたが、店は現存する。
裏窓

 そのあと三条の「珉珉」でギョーザとジンギスカンを食べて下宿へ。

珉珉三条大橋店

 珉珉三条大橋店(現・三条店)は、京都市中京区木屋町通三条下ル一筋目東入ル石屋町の中華料理店。ギョーザの珉珉チェーンの店で、看板料理の一つがジンギスカン(写真下)である。
 珉珉は1953年、画家だった古田安夫が大阪・南区(現・中央区)の路地裏に開店した大衆向け中華料理店がスタートで、餃子を主力として急成長し、関西一円にチェーン店を持つようになっていた。
珉珉地図珉珉外観
 当時は南側に入り口があり、店は1階部分だけだった。建物は一新されたが、同店は現在も同じ場所で営業している。なお当時、珉珉チェーンには別に(旧)「三条店」が京都市中京区河原町通三条下ル二筋目東入ル大黒町にもあったため、こちらの可能性も残る。
珉珉ギョーザ珉珉ジンギスカン
☞二十歳の原点序章1967年11月18日「三条の「珉珉」で古井さん、島田さん、飯田さんと食事をし」
珉珉から下宿

 アジビラをよんでいつのまにか電気をつけたまま眠る。
 アジビラは、学生運動で集会や演説などとともに学生などに配るためのビラをいう。
 高野悦子が読んだアジビラは「文闘委の旗」の可能性がある。
文闘委の旗
 高野悦子が参加していた立命館大学全学共闘会議文学部闘争委員会(文闘委)のアジビラ「文闘委の旗 No.10」(写真下)全文は以下の通り。
文闘委の旗 立命館大学の野辺送り、あるいは闘争宣言。
 文闘委の旗No.10(1969年5月26日)
 立命館大学全学共闘会議文学部闘争委員会

 立命館の全ての心ある学友諸君!!とりわけ状況を鋭敏に感じ取り得る文学部の学友諸君!
 我々立命館大学全学共闘会議文学部闘争委員会は、大学当局の人間性を無視した闘争圧殺を満身の怒りをこめて学友諸君に訴えると同時に、如何なる非人間的な闘争圧殺にも屈せずフェニックスのごとく羽ばたいて見せる事を宣言する。
 5月20日の屈辱の日を忘れまい。その物理力による弾圧は、我々の闘争・団結の力を強めこそすれ、弱めることに決してなりはしない事を。教授達!あなた方はそういう事を歴史を通じて教えたではないか。自分自身の学問的信念を裏切って、歴史を歪曲し、支配者の論理を今や我々に強要しようとするのか。
 今や時計の針は逆転しようとしている。あの新聞社事件当時の陰湿な無気力な秩序にもどろうとしている。最初から一貫して問題提起を行ない、主体的に闘っている我々を民青・機動隊を使いながら圧殺し、もう一方で改革案なるものをチラつかせながら「これだけ譲歩したのだからいいのではないか。これ以上文句のあるやつは話す必要はない!」との態度に出ている。
 我々の問題提起と直接対決せず、自らかってに問題を設定し、そして自らを危うくしない範囲での譲歩をし、それを闘っていない部分に同意を求める事によって正当化しようとする教授会、当局の態度は見えすいている。
 当局・民青が如何にデマ宣伝をし、真実をインペイしようとも最早けっしてだまされない部分が確実に存在しているということを明らかにしておきたい。
 現在社会の亀裂にひたすら目をふせぎ、「平和と民主々義」、その象徴「わだつみ像」をあたかも実体のあるがごとく無批判にまつり上げる事は、最早、反動的・体制的意識以外の何ものでもない。我々は、幻想の合一体である戦後平和と民主々義の中の亀裂を見つめ、その亀裂を止揚すべく闘わなければならない。その過程で右翼的に分裂する部分も当然生まれてくる。我々はこの反革命部分を打倒しなければ我々の前進はあり得ない。亀裂をかくし、抽象的に「平和と民主々義」をかかげることは左翼部分を追い出し、自らの体制内での安泰をめざす党派的利害以外の何物でもない事を宣言し、亀裂を深めるため闘争を断固継続するであろう。そのためにも闘わないものの免罪符となり下っている「わだつみ像」は倒されねばならなかったのだ。
 20日立命、23日京大において大弾圧をうけ、一時的衰勢はまぬがれ得ないにしても必ずや広小路キャンパスに再生し、更なる闘争の前進を勝ち取る事を事実でもって示すであろう。
 1969年5月26日
 [20日あるいは23日における大弾圧によって、不当に逮捕され、負傷した多くの学友のため、又更なる闘争の継続のためにより多くの資金カンパをお願いします。]

恒心館に機動隊
京大に機動隊
「立命館闘争勝利大報告集会」告知ビラ

 民青の〝カエレ〟のシュプレヒコールの中の緊張から、五・一のメーデー会場で民主化棒でなぐられた衝撃、五・二一の弾劾集会のときに足でけられた衝撃、

☞1969年5月2日「民青に棒でポカンとなぐられる」
☞1969年5月24日①「門でこぜりあい。民青になぐられる」

 さらに五・二三機動隊の棍棒で顔を殴られ、髪を引っぱられたときに私の肉体がうけた衝撃、署に連行される時のパトカーのうるさいサイレンの響き。

☞1969年5月24日③「投石してつかまるが帰される」

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