高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和43年)
1968年 3月30日(土)
 雨

 京都:雨・最低13.6℃最高17.3℃。朝から弱い雨が続き、夕方に一時雨足がやや増した。

 久しぶりの雨で、前の家の瓦屋根も細い道も、しっとりと落ち着いていた。

前の家と細い道 ある程度の雨になったのは25日(月)の夜以来となる。ただ28日(木)未明にもごく弱い雨を観測している。
 高野悦子が2階の部屋で暮らしていた青雲寮(下宿)前は路地になっていて、路地をはさんで向かいの住宅は瓦ぶき平屋建てだった。この住宅は現存している。
青雲寮

 新書版の『インドで暮らす』と『刻々』『乳房』をよんでますます以前に感じていた矛盾が、

 「刻々」「乳房」は、ともに宮本百合子『宮本百合子集』日本文学全集第37(新潮社、1962年)所収の小説。
 「刻々」は1933年に執筆した小説で、雑誌『中央公論』(中央公論社(現・中央公論新社))に送るが掲載不可となり、死後の1951年に発表される形になった。左翼活動をした疑いで駒込署に身柄を拘束され、特高警察の取り調べを受けた留置場の生活を記録した。宮本百合子がプロレタリア文学の作家に転身して以後で最もクオリティが高い作品の一つとされる。
 「乳房」は『中央公論1935年4月号』(中央公論社(現・中央公論新社))に発表した小説。託児所の女性の生活を中心に当時の左翼活動家の抵抗と特高警察の弾圧の情景を描いた。いわゆる社会主義リアリズムの作品として位置付けられている。

 おばさんのところに用事があり、

 おばさんは青雲寮を管理している女性のことである。高野悦子が撮影した写真で「おばさん」は眼鏡をかけ前掛けエプロン姿で立っている。

 今週(二十四日~三十日)読んだ本─

 タイトルが列挙されているが、本の冊数で言うと、『堀田善衛集』、『宮本百合子集』(462頁まで)、『インドで暮らす』、『わたしの山旅』の計4冊。
 『貧しき人々の群れ』は「貧しき人々の群」、『灯台』は「灯台へ」、がそれぞれ正しい題名である。

1968年 3月31日(日)
 晴

 京都:晴・最低8.1℃最高19.0℃。

 午前中は床をしいたまま、ズッとFM放送をきいていた。

 NHK-FM午前8時25分~9時00分:「朝のコーラス」・中田喜直『女声合唱曲集』ほか、午前10時00分~午後0時00分:「ステレオリズムアワー」~ポピュラー・ア・ラ・カルト~話・石田豊『虹を追って』『セビリア』

 ハガキを出すときは京阪の駅か駅前をちょっと西側にいったところの郵便局にいけばよいとか…

山科郵便局地図 京阪の駅は京阪山科駅のことである。下宿である青雲寮近くで郵便ポストがある場所は、京阪山科駅前と、駅から南南東に240m行った京都市東山区山科安朱南屋敷町(現・山科区安朱南屋敷町)の山科郵便局などがあった。
 山科郵便局は1973年、京都市東山区山科西野阿芸沢町(現・山科区西野阿芸沢町)に移転した。現在はパチンコ店などが入るビルになっている。

京阪山科電車写真ポイント

 高野悦子は1968年3月下旬、京阪山科駅近くで電車とともに写真に写っている。写真は青雲寮から毘沙門堂に向かう途中で撮影した。
 京阪山科駅を出て、京阪京津線の北側に沿った道を東に進んでいる。道の入り口付近には毘沙門堂と書かれた案内柱が立っている。
電車写真ポイントの位置駅東側の道
 1枚目の写真は京都市東山区山科安朱中小路町(現・山科区安朱中小路町)の京阪京津線・山科駅前踏切と山科2号踏切の間で撮影された。
山科区安朱中小路町電車写真ポイント(急行)
 高野悦子の向かって左側に写っている後姿の女性は長沼さんである。2人とも下宿から近いためサンダル履きで来ている。柵に古い枕木が使われていることや、付近の道路が舗装されていないことがわかる。
京阪山科で急行電車と撮影 走っている電車は石山寺発三条行下り急行であり、画面手前にあって停車駅である京阪山科駅に接近したため減速している。車両は京阪300形で、当時の京阪本線特急と同じ赤と黄の塗り分けがされている。
 左奥の貸ガレージ・自転車預り所は、現在も月ぎめ駐輪場として営業している。また右奥は京都麻織物のビルで、建物は現存している。
 一方、線路沿いに立っていた「後山階陵・輪王寺宮御墓・参道」の道しるべは現存しない。

 2枚目の写真は京都市東山区山科安朱馬場ノ西町(現・山科区安朱馬場ノ西町)の京阪京津線・山科4号踏切と毘沙門道踏切の間で撮影された。
安朱馬場ノ西町電車写真ポイント(普通)
 高野悦子が左手で耳を押さえているのは軌道から近く電車の走行音が大きいからである。右手に持っているのは持参した自分のカメラで左手はそのケースとみられる。
京阪山科で普通電車と撮影 走っている電車は三条発浜大津行上り普通。京阪山科駅の次は四宮駅に停車する。車両は京阪80形で、京津線普通用に1961年から製造され、高速モーターと回生ブレーキを持つ新鋭車だった。架線からの集電をポールで行っているが、京阪京津線では1970年8月からポールから菱形パンタグラフに変更されている。
 また右の住宅が現存していることがわかる。
 この日は京阪山科駅の入り口前でも長沼さんと並んで写真を撮っている。
京阪京津線

 花つね食堂の脇の道を進み、ガードをくぐって、だらだら坂をのぼっていくと、途中に疏水が青緑の水をゆったりと流している。

花つね食堂

  花つね食堂は、京都市東山区山科御陵鳥ノ向町(現・山科区御陵鳥ノ向町)にあった食堂である。定食、丼物といった一般的なメニューで、高野悦子の下宿から最も近い食堂にあたる。建物は現存するが、現在はボランティア団体の拠点になっている。
 北東にあるコインパーキングの敷地部分は当時、青雲寮側から通り抜けることができた。
花つね食堂地図食堂跡
 京阪京津線・安祥寺道踏切を渡ると、その先にガードがある。
安祥寺道踏切安祥寺川橋梁
 ガードは、京都市東山区山科御陵田山町(現・山科区御陵田山町)にある国鉄(現・JR西日本)東海道本線・安祥寺川橋梁である。
 下り線部分が1921年8月に、上り線部分が1944年10月に完成した。南側はれんが造りで、後からできた北側はコンクリート造りになっている。桁下高さ2.3mの標示がある一車線で、道路の下には安祥寺川が流れている。
ガードの中ガードを出た直後の坂道
 ガードを過ぎるとほぼ直線の上り坂が約300m続く。
ガードとだらだら坂地図だらだら坂
山科疏水(琵琶湖疏水)

 安祥寺が見えてくる。

安祥寺

 安祥寺は、京都市東山区山科御陵平林町(現・山科区御陵平林町)にある真言宗の寺院。
安祥寺境内見取図寺の入口
 「北の山ぞいにひっそり立っている安祥寺を知る人はあまり多くはないであろう。この寺は、嘉祥元年(848)藤原順子を本願、慧運僧都を開基として建立されたが、盛時には大門・大塔・金堂をはじめ700余宇の堂舎を擁したと伝えられる。順子は、藤原氏の北家興隆の基礎をひらき、ながく家祖と仰がれた冬嗣の女で、仁明天皇の皇后として文徳天皇の生母となり、藤原氏が天皇の外威として政治の中核に位置する端緒をひらいた女性であった。その順子の本願とする寺が、このように発展したことは、その後の藤氏の隆昌に比例する意味をもっていたであろう。しかしこんにちの安祥寺からは、王朝の面影をしのぶすべもない。江戸時代末期の再建にかかる本堂・地蔵堂・祖師堂などが、荒廃した姿をとどめているにすぎない。このような大きな変転をもたらしたものは、応仁・文明の大乱であった。このあと王朝の遺跡は多く桃山・寛永の遺産によって再生し得たのだが、この寺はついにその機会をも失ったのである」(林屋辰三郎「醍醐から宇治へ」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))
 本堂(観音堂)は1817年に再建されたもので、堂内には木造で漆の上に金箔を張った十一面観音像や四天王像がある。
安祥寺境内本堂(観音堂)
 このほか地蔵堂、大師堂などがある。境内は現在、通常非公開になっている。

 うっそうとした木立にかこまれた池がある。

 池は境内に入って左側にある。近所の人がよく訪れる場所になっていた。
安祥寺にある池池の水面
 現在は訪れる人はおらず、静けさを保っている。

 それから急な山道をのぼって(いつかは、赤い山ぐみがなっていてそれをとってたべたっけ)山科一帯の景色をながめた。

手前の山の岩

 安祥寺の裏の山道付近には、アキグミが自生していて秋に実を付ける。
自生している山ぐみ山ぐみアップ

 新幹線がマッチ棒をつなげたような形をして、

 国鉄(現・JR東海)東海道新幹線は、山科駅付近で東海道本線より約1.3㎞南側のルートを走っている。東海道新幹線は当時12両編成だったが、現在は16両編成になっている。
☞1967年4月22日「山へ登って小さなマッチ箱よりも小さいような家々をみた影響だ」

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