高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和43年)
1968年 8月 4日(日)
 三十一日に帰省してから四日たった。

 夏合宿のあと、京都の下宿に一度戻ってから帰省した形である。
高野悦子の実家

 最初の息ごみはどこへやら、

 正しい表記は「意気込み」。

 ワンゲルの夏合宿の反省もまだやっていない。

夏合宿

 ワンゲル部の昭和43年度夏合宿が1968年7月26日(金)~27日(土)に長野県原村の八ヶ岳経営伝習中央農場(八ヶ岳農場、現・八ヶ岳中央農業実践大学校)を集結地として行われた。部員100人弱が参加した。
八ヶ岳と南アルプスの地図八ヶ岳農場地図
 夏合宿は、夏期休暇中に部員の多くが参加して行われるワンゲル部のキャンプで、年間で最大のイベントだった。
参加する部員の多くはグループ(パーティ)に分かれて、7月下旬から概ね1週間から10日程度の山行などを行った後、集結地に合流して集合した。
 各パーティの行き先はそれぞれ異なるが、集結地に比較的近い地方に絞られることになる。高野悦子が参加したパーティの南アルプス山行も、集結地から近い。一方で集結地で準備して各パーティの到着を待ち受ける役割の部員もいた。
 1年生で参加したワンゲル部OBは「われわれの時は集まる人数が多かった。夏合宿では必ず〝キャンプファイヤー〟と称して、まきをロの字型に組んで燃やした周りで集まったりした」と話している。

 集結地になった八ヶ岳経営伝習中央農場は、農家後継の若者を主な対象に農業経営と農業技術を教育する機関で、全寮制による生産実習を特徴としていた。八ヶ岳山麓の標高約1,300mにあり、「八ヶ岳中央農場」「八ヶ岳農場」とも呼ばれた。戦後、農場の整備が進むに伴って、夏期に大学生や高校生向けの短期実習会も行われていた。1973年に八ヶ岳中央農業実践大学校に改称している。現在の本館兼教育棟は1984年にできたもので、西隣に旧事務室が資料室として残っている。
八ヶ岳中央農業実践大学校八ヶ岳経営伝習中央農場事務室跡
 1960年代の付近は「近代農場の形態は一目で十分にうかがえる。昇り切った太陽が、やっとあたりにたそがれて、農場の人たちが働き出す。1番のバスは、村の小学校へ通う子供たちを乗せて、今登って来た道を引き返えして行った」「農場の事務所を訪ねると、宿直の人が1人いた。農場に入ることを、別に止められなかったので、あちこちと歩きまわる。白樺の点在する落葉松の林にかこまれて、真白なサイロが、赤い屋根をのせ、牧サクにそって、ススキが光っている。真青なトラックターが、ゆっくりと耕地に向かって走って行く」「あたりをとりかこむ山岳はすばらしく、かけ出して登れそうにまで見える」(小谷明「八ヶ岳農場付近」産経新聞社編『関東周辺一泊旅行』(秋元書房、1961年))光景とされる。
 諏訪自動車(現・アルピコ交通)が夏期、国鉄(現・JR東日本)・茅野駅から八ヶ岳農場を経由し美濃戸口までバスを1日7往復運行していた。現在は1日2~6往復運行している。さらにワンゲル部の夏合宿では別にマイクロバスも利用した。

 夏合宿のキャンプ地が八ヶ岳経営伝習中央農場の中でどこだったかは特定できない。ただ、八ヶ岳中央農業実践大学校総務部によると、現在の本館兼教育棟から約900m離れた、敷地南東部にある広場付近が学生のキャンプに利用されていたという。
八ヶ岳中央農業実践大学校空撮広場に通じる道路
 夏合宿では全体及び学年別に記念の集合写真が撮影された。2年生は39人で、傘を手にした部員が多い中、向って左側に高野悦子が写っている。背景には八ケ岳連峰の稜線が薄っすらと見える。
キャンプに利用されていた広場ワンゲル部夏合宿の写真
 (参考)7月27日・諏訪:曇時々雨・最低19.6℃最高25.3℃。

1968年 8月 5日(月)
 うだるような暑さ、昼頃雷雨あり涼しくなる

 (参考)宇都宮:晴・最低22.5℃最高31.4℃。

 午前中は、五万分の一の地図をみておわった。

 5万分1地形図は、国土地理院が発行する地形図で、当時は最も広く国内をカバーしていた。現在は新規発行をしておらず、2万5千分1地形図が全国をカバーする形になっている。
小林地図専門店

 バエズのレコードを聴いて

 ジョーン・バエズ(1941-)はアメリカの女性フォーク歌手。伝統的なフォーク・ソングから始まり、ベトナム戦争が長期化する中で反戦のメッセージ性が強い曲も歌った。1967年1月に初来日し、日本各地で公演した。

1968年 8月10日(土)
 曇ときどき雨

 (参考)宇都宮:曇時々雨・最低22.1℃最高28.3℃。

 宇都宮の「マスキン」で、宇女高もと三年七組のクラス会があった。

マスキン相生町本店

 マスキン相生町本店は、栃木県宇都宮市相生町(現・馬場通り三丁目)にあったレストラン・和洋菓子店である。
マスキン相生町本店地図当時のマスキン相生町本店外観と宇都宮市街
 マスキンは初代・斎藤金次郎が1872年に宇都宮で開業、金平糖その他の菓子を製造販売した。屋号は桝屋で、通称・桝屋金次郎すなわち「桝金」となり、「マスキン」の由来となった。初代によって経営基盤を確立した。
 戦前に事業を発展。1930年にパンの製造を始めたほか、1935年には西洋風3階建てで2階に喫茶室を設置した店舗を構え、当時の宇都宮市で最もモダンな店づくりをして、高い知名度を誇るようになった。
 戦後も復興して急ピッチに発展を続け、本店は1958年に菓子等販売とレストランが入る地上3階地下1階のビルとなった。レストランは宇都宮市内で最大規模となり、地階の食料品売り場にはセルフ方式のスーパーマーケット業態を導入した。一方で不動産事業として映画館や賃貸も行い、一時は宇都宮市内の有力映画館の大半を傘下に収めたこともあった。1960年代には各地に直営店も開くなど業容は拡大した。
 マスキンでは1966年に地上5階地下1階延べ約4,200平方メートルの新しい本店ビルが完成した。1階は和洋菓子・食料品売り場、2階はお好み食堂、3階は中国レストラン、4階は大宴会場、5階は結婚式場という〝食〟に関する総合ビルだった。
宇都宮中心部空撮とマスキンマスキン相生町本店跡
 建物は現存せず、1997年に開店した宇都宮パルコの一部になっていたが、宇都宮パルコは2019年5月に閉店した。マスキンの事業は現在、創業家の会社が「御菓子司桝金」の名称で運営し、宇都宮市内に店舗展開をしている。
栃木県立宇都宮女子高等学校
☞1967年3月26日「いつもの仲間(サカ、マツ、ニシチャン、トヨ)で」

1968年 8月15日(木)
 午前中むし暑く、午後一時にわか雨

 (参考)宇都宮:曇一時雨・最高31.4℃最低22.3℃。

 夏休みだというのに本部体制で、学校側との団交をやったり、本部ニュースを出したりしていた。

 部落研での活動である。
同級生への直筆はがき

 東小跡に今年もやぐらがくまれ

西那須野町立東小学校

1968年 8月19日(月)
 巻層雲 うす曇り

 (参考)宇都宮:晴・最低20.6℃最高32.0℃。

 その合い間に英語と仏語、

 この2科目は前期試験が控えていた。

1968年 8月28日(水)
 強いにわか雨

 京都:雨・最低21.1℃最高27.0℃。午前7時ごろと午後4時ごろに雨足が強くなっている。

 西那須野を八・〇〇発の急行「津軽」。

 乗ったのは国鉄(現・JR東日本)・青森発上野行の急行「第2津軽」である。この区間は電気機関車けん引の客車列車。
 国鉄・西那須野駅08:00-08:36宇都宮08:38-09:03小山09:06-大宮09:48-赤羽10:12-10:26上野駅0番線(現・13番線)。

 これが青森発で旅行帰りの客で車内はいっぱい。

 急行「津軽」は1950年代から60年代、奥羽本線を経由して東北地方と東京方面を結ぶ代表的な急行列車で、「出世列車」と広く呼ばれた。当時は東北からの出稼ぎや集団就職が盛んであり、普通列車や集団就職列車で上京した出稼ぎや集団就職の人々にとって、急行「津軽」とりわけ一等寝台(現・A寝台)を利用して帰郷することが〝ふるさとに錦を飾る〟象徴だとされた。

 東京発一一・〇〇の「ひかり」の指定席があり、京都にダイヤより十六分おくれて(集中豪雨の為)到着する。

 超特急「ひかり21号」である。東京駅19番線11:00-13:00名古屋13:02-13:50(定刻)-14:06国鉄(現・JR東海)・京都駅。
 「局地的に大雨を降らせている前線は27日午前、太平洋岸ぞいにまで南下したが、同日午後になってまた北上、28日にかけて近畿を中心に集中豪雨の恐れが強まった」「27日正午から午後3時までの3時間に」「京都でも」「30ミリの強い雨があった」(「近畿に大雨の恐れ」『朝日新聞(大阪本社)1968年8月28日』(朝日新聞社、1968年))。8月25日の降り始めから27日午後9時までの総雨量は京都で90ミリに達した。

 駅でお茶漬をたべて下宿についたのが三時半位。ひっそりとした廊下を通って部屋に入る。

国鉄京都駅と原田方下宿の位置関係 京都市電と京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)利用の場合は、京都駅前停留場-(京都市電烏丸線)-四条烏丸停留場…烏丸駅-(阪急京都本線)-桂-(阪急嵐山線)-松尾駅(現・松尾大社駅)。京都市電烏丸線は1977年に全線廃止された。
 京都市バス利用の場合は、京都駅八条口停留所-(京都市バス28系統(北嵯峨線)・38系統(嵐山線))-松尾大社前停留所。
原田方

1968年 8月29日(木)
 台風十号さつま半島南端に上陸。瀬戸内海をへて能登半島にぬける。
昭和43年台風10号を伝える京都新聞夕刊 台風10号は8月「29日午前2時鹿児島県薩摩半島南端に上陸、スピードを上げながら九州南部を横断、宮崎市付近から日向灘に抜けたあと午前8時ごろ、愛媛県南部に上陸した。このため西日本各地は29日明け方から台風の風雨圏にはいり、高知県室戸岬測候所では午前10時20分、瞬間最大風速46.5mを記録したほか、各地で風雨が強くなった。台風は午前9時ごろ松山付近を通過、正午ごろには尾道付近に上陸、中国地方中部を通過して、午後3時ごろ鳥取または豊岡付近から日本海へ抜けるもよう」(「中国を斜断、日本海へ─台風10号」『京都新聞昭和43年8月29日(夕刊)』(京都新聞社、1968年))

 午前曇ときどき雨、午後強雨、夕方北東の風強し

 京都:大雨・最高27.8℃最低21.5℃。朝から曇で午前10時ごろから雨が本格的に降り始めた。午後3時から3時間、ザーザー降るやや強い雨が観測されている。

  1. 高野悦子「二十歳の原点」案内 >
  2. 序章1968年7-12月 >
  3. 夏合宿 マスキン