高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和43年)
1968年 5月23日(木)
 晴

 京都:晴・最高27.2℃最低14.7℃。午後は快晴。

 十八、十九日比良山にいって以来、

 5月19日は創立記念日だが、この年は日曜日に重なった。
比良山地

 二十日は衛生講習会で帰宅が十時、きのうはパーワン反省会で九時。

 衛生講習会とは、たとえば包帯の使い方といった救急法などに関する部内の講習会。ワンゲル部では合宿などの行事に薬品や救急箱を持参していく対応をしていた。部内で衛生係になると日本赤十字社で講習を受けることもあったという。

パーワン(パーティーワンデリング)

 パーワンはパーティーワンデリングの略で、ワンゲル部内で募った有志のグループによる活動である。アルファベットの頭文字からPWとも表記した。5月18日(土)・19日(日)の比良山への山行もパーワンにあたる。
 目的地やコース・スケジュールなどを盛り込んだ計画をワンゲル部のボックスやスペースに掲示して同行者を募り、その計画を見て参加を希望する者が募集期間中に申し込み用紙へ氏名等を書き込んでいくスタイルをとっていた。広小路キャンパスのワンゲル部のスペースでは入って左側の壁に掲示・申込用紙があった。システムとしては、参加は部員の自由、希望者は全員が参加、費用負担は参加者で平等を柱にしていた。グループの人数は10人以下のケースが多かった。
 立命館大学のワンゲル部は、部員の自主性を尊重する理念から、パーティーワンデリングを活動の中心に置いていたのが大きな特徴だった。合宿などの行事も、パーワンのグループ活動の延長線で集まるという位置付けになっていた。
 部員の多い大学サークルに存在する〝班〟(またはそれに相当する下部グループ)制度とは意味合いが全く異なる点に注意する必要がある。
 ここでの反省会は、今回の比良山への山行のパーワン参加メンバーで集まって開かれたミーティングということになる。

 十勝沖地震、

 1968年十勝沖地震は、5月16日午前9時48分に発生し、「震源は北海道襟裳(えりも)岬の南南東約120キロ、深度約40キロで、地震の規模はマグニチュード(M)7.8、39年6月の新潟地震(M7.5)を上回り、大正12年9月の関東大震災(M7.9)に匹敵する。陸地での震度の最高は6、27年3月の十勝沖地震以来16年ぶりという激しさ」(「北日本全域に強い地震」『朝日新聞1968年5月16日(夕刊)』(朝日新聞社、1968年))の地震である。
 青森県を中心に52人が死亡し、330人がけがをした。
 震源の深さの推定は後に0キロに改められている。

 学生運動の分裂、
 立命館大学では前年に行われた各学部学生選出の自治委員・代議員選挙の結果、1967年7月に全体のトップにある一部学友会の執行部を民青系が占めることになった(政権交代)。
 以降の大学内では、執行部に反発する反民青系勢力との小競り合いが続き、さらに「学生運動の全国的・国際的な盛り上がりを反映し、キャンパスで配布される学生のビラは発行主体も枚数も著しく多く」(「立命館における「大学紛争」とその克服」『立命館百年史通史二』(立命館、2006年))なり、スローガンなどを書いた立て看板も数多く掲出されていた。
 大学外で三派系全学連に代表される反共産党系が活発になり、さらに東大医学部の処分撤回問題や日大の使途不明金問題などがクローズアップされる中、立命館大学の学友会執行部では1968年4月から、民青・共産党系としての拠点を守り確立するというスタンスを強めた。
 反民青系が「学校に泊りこみ夜中にコン棒をもちヘルメットをかぶって同盟や党のポスターや、学友会、自治会の立看板を破り破壊するという許しがたいことをし」(「新入生むかえ大奮闘─立命一部学生班」『京都青年1968年4月15日』(日本民主青年同盟京都府委員会、1968年))たと民青系機関紙で報じられ、民青系はキャンパス内での反対派のビラ配りを制限したり、三派系全学連の立て看板を撤去するなど、反民青系勢力のキャンパス内での活動を事実上封じ込める動きに乗り出した。「「反キャンペーン」にとどまらず「実力行使」に出ており、それはこれまでの本学には無かったことである」(「学内の状況に見る学生運動の基本的任務」『立命館学園新聞昭和43年4月21日』(立命館大学新聞社、1968年))とされた。
 この段階で一部6学部のうち法学部、産業社会学部、経済学部の3自治会執行部がすでに民青系となっており、1968年の自治委員・代議員選挙や学生大会で残る、文学部、経営学部、理工学部まで民青系となるかが焦点となった。
 一部各学部執行部の勢力の動向は以下の通りである。
年度\学部 経済 経営 産業社会 理工
1967年度 民青系 反民青系 民青系 反民青系 民青系 反民青系
1968年度 民青系 ** 民青系 反民青系 民青系 民青系
 *1967年度の一部経済学部は選挙後の執行部選出をめぐって反民青系と民青系が対立して混乱が続き、結局1967年12月1日(金)に民青系で開いた学生大会で「新執行部」を選出する形で事実上決着した。
 **一部文学部では1968年度の自治委員・代議員選挙を僅差で民青系が制した。しかし学生大会で直接選出する執行部については委員長に反民青系、副委員長2人に民青系を選出するねじれ状態でスタートとなった。


 選管の問題で現在文学部は非常に混乱している。

 前年の選挙で反民青系だった文学部、経営学部、理工学部の各執行部のうち、1968年の自治委員・代議員選挙で、経営学部は反民青系が継続することが確実、理工学部では民青系へ移行することが確実な情勢となった。このため残る流動的な文学部の行方に注目が集まった。
 自治委員・代議員の選挙手続きは一部学友会の選挙管理委員会(民青系)が定めるが、その選管が文学部の選挙について1968年5月17日(金)付で告示した内容について、文学部自治会執行部(反民青系)を中心に〝不審な点がある〟として対立した。
 選管の告示は以下の通りだった。
①告示は17日付。
②文学部の9つの専攻のうち哲学、心理学、日本文学、中国文学、英米文学、東洋史学、西洋史学の7専攻について、5月22日(水)午前9時から午後4時半まで清心館で投票を行う。
③立候補受け付け締め切りは5月20日(月)午後3時、立候補演説は5月21日(火)アセンブリーアワー時間帯に行う。
 これに対する文自執行部側の抗議は以下の4点にわたった。
①告示から立候補受け付け締め切りまで日曜日を除く4日間のはずが日曜日が含まれている。17日付の告示も実際の発表は5月18日(土)早朝だった。
②文学部の9つの専攻で同時に選挙が行われず、日本史学、地理学が遅れるのは不自然である。
③これまでの慣例ではアセンブリーアワー時間帯に投票だったが、水曜日投票に変えられている。
④告示は当初は学友会の掲示板にだけ出され、文学部自治会の掲示板に出されたのは18日深夜だった。
 この対立は実質的には立候補者調整や多数派工作といった選挙運動をめぐる駆け引きである。
 5月18日午後0時10分から清心館前で文自執行部側の学生約200人が抗議集会を開いて選管側に回答を求めた。選管側は「他学部との関係でやむをえなかった」と説明し、平行線に終わった。
 さらに20日午後1時から清心館前で文自執行部は公開討論形式の集会を開き約200人の学生が参加した。選管側は告示の正当性を主張して対立は解消しなかった。
 アセンブリーアワー(AH)は、自治会活動をはじめとする様々な全校的な課外行事へ参加する機会を設けるため、時間割上に講義・演習等を入れない時間帯を言う。

 西洋史の講義など、とてもうけられる状態でない。選管のアジと文自執行部のアジ、うた声、拍手。私達のクラスは自治委員選挙の白紙撤回の要求を決議した。

文自執行部と選管の集会 選管告示で立候補演説にあたる1968年5月「21日、文自は清心館前で集会を開き、アッセンブリーアワーを立合演説の時間とせず、告示問題の討論の場にすることを確認し、アッセンブリーアワーでは、日文、英米、日本史、西洋史、東洋史で告示白紙撤回を内容とするA・H決議が出され、全専攻の1、2回生を中心にクラス決議があげられた」(「各クラスで続々決議、告示撤回せまる─一文選挙」『立命館学園新聞昭和43年6月3日』(立命館大学新聞社、1968年))が、選管との話し合いは決裂した。
 選管告示で投票時間開始にあたる5月22日(水)午前9時から清心館前で文自執行部が200人以上の学生が参加する集会を開いて選挙の再告示を要求した。
 その横では選管と一部学友会そして文学部全学連連絡会議(民青系)の学生100人が〝選挙を成功させる集会〟を開いた。
 正午前、投票の実施をめぐって双方が衝突して混乱したため、選挙は中止になった。
 高野悦子は清心館で講義出席中にこの2つの集会の声や音を聞いたとみられる。

 選管は5月30日(木)、文自執行部側の要求を全面的に受け入れる形で新しい告示を出し、6月4日(火)に投票が行われることで決着した。
☞1967年6月4日「文学部全学連連絡会のもとで電話や直接家にいってやるとか」

1968年 5月27日(月)
 山小屋のノートをよんで、

 山小屋には感想などを自由に書き込むノートが置かれていた。
山小屋

1968年 5月28日(火)
 久しぶりに七時ごろ下宿に帰った。

原田方

 御所で三浦さんと二時間ほど、

☞1967年6月16日「仏語をさぼって御所でのんびりとした」
ちくしょう・西山さん「一生の戒めに」

1968年 5月29日(水)
 きのう買った地図をなくしてしまい、再び京都駅近くの地図屋までいって買ってきた。
小林地図専門店

 地図屋は、京都市下京区烏丸通六条下ル北町にあった小林地図専門店である。
小林地図専門店の位置東本願寺前地図
 1927年に東京・三宅坂にあった陸軍省御用達・小林川流堂(現・開成印刷)の支店として開店以来、地図の専門店となる。
 関西で有数の地図販売店で、国土地理院発行の地形図を全国分そろえていた。官公庁用や学校教材用の地図も扱っていた。
 売れ筋は京都・滋賀をはじめとする地形図、観光地図、道路地図、都道府県別地図、登山ハイキング地図、ガイドブックなどで、年間では春ごろから売れ行きが増え始め、6月中旬から8月上旬の夏山シーズンがピークになっていた。
 地形図は店頭で注文すると奥の棚から地図を出してくるスタイルで販売していた。「経営主の園豊次さんを先頭に家族総出で、客の応対につとめており、常に品切れの地図のないように心をくばり、旅行者や登山者の案内や、学習用の地形図の彩色や模型の作り方の相談にのるなど行きとどいたサービスを心がけて」(「地図販売店めぐり─京都市下京区烏丸通・小林地図専門店」『地図の友昭和39年12月号』(地図協会、1964年))いたという。
当時の小林地図専門店小林地図専門店跡
 同学年だったワンゲル部OBは「山に行く時はみんなここで地図を買った、というかここで買うしかなかった。京都近辺の地図なら書店にあったかもしれないけど、全国になるともうここに全部そろってるから、大概ここに買いに行っていた」と述懐する。
 広い間口が特徴だった建物は現存せず、現在はホテルの一部になっている。小林地図専門店は店舗を付近に移転後、2008年に閉店した。事業は、京都市左京区吉田本町の関西地図センターに実質的に引き継がれている。

 衣笠からの電車の混みようと、値上げ。

 衣笠は、京都市北区平野宮本町にあった京都市電・衣笠校前停留場(南行)のことである。立命館大学衣笠キャンパスから最寄りの停留場にあたる。現在の京都市バス・衣笠校前停留所より北に位置した。
衣笠校前停留場地図当時の衣笠校前停留場
 京都市電の運賃は、高野悦子が大学入学当時は片道15円だったが、1968年1月16日(金)に20円に値上げされた。さらに7月1日(月)から25円に再値上げすることになっていた。
衣笠校前停留場跡

 阪急の遅れと値上げ。

 京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の運賃は1966年1月20日に1区20円に値上げされ、次は1970年10月5日の1区30円に値上げである。高野悦子が立命館大学在学中の値上げは行われていない。

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