ここで名指しされた、「西山さん」に話を聞いた。
西山さんは立命館大学文学部史学科日本史学専攻の同級生(1967年入学)男性で、『二十歳の原点序章』に多く登場する一人でもある。
西山:あれは1974年で大阪駅近くの旭屋書店だった。『二十歳の原点序章』の単行本が並んでいたので手に取って立ち読みした。これはびっくりした、もう本当にびっくりした。
本を買って読んで、「西山」が自分のことだと。そして「ちくしょう、あの西山のやつめ!」というくだりを見つけた。
もう足が震えたな。そのくだりに書かれている時のことが記憶に残っていた。
旭屋書店本店は大阪・梅田駅前の大阪市北区曽根崎二丁目にあった大型書店。2011年に閉店した。
西山:なるほどなあ、4月22日は歴研(歴史学研究会)をめぐって何か話し合いをしたんだな。「西山さん」も出てるな。最初だけだけど真面目に手帳にメモをしてあるなあ。
1年生の時は仲が良かった。
入学してクラスが同じになるし、新入生歓迎をはじめ各派〝オルグ〟のようなものもあって、専攻ごとに同級生で集まる機会がいろいろあった。そこで会ったりしているうちに付き合いができたと思う。僕と長沼、長沼の下宿と同じ山科の高野悦子、という長沼を介した形の関係だったが、3人で一緒に動くことが多くなった。
春のあたたかくなった時に、長沼と一緒に高野悦子のアパート・青雲寮に行ったこともあった。
それで部屋の窓を開けたら、外壁に可動する物干しざお取り付け金具があったのを見つけた。自分は鉄道ファンだったから、その金具をわしづかみにして手前に回しながら電気機関車のブレーキみたいに扱ってふざけたりした。そしたら青雲寮のおばさんから「男の人が窓から顔を出したらダメ。具合が悪いから止めて」って怒られてしまった。女性専用アパートだったからなんだけど、大笑いだった。部屋の中の様子とかは忘れたけど、その出来事だけははっきり覚えてる。
タカラブネ本店は、京都市上京区河原町通今出川上ル青龍町にあった喫茶店。和洋菓子も販売していた。建物は現存せず、現在は信用金庫の支店になっている。
タカラブネは一時期、京都市上京区今出川通河原町西入ルに出町店があった。タカラブネ・チェーンは現在、不二家の子会社「スイートガーデン」が展開する和洋菓子店になっている。
どんな話をしたかまでは覚えてない。彼女はちょっと栃木のなまりがあったけど、あまり話さなかった。地方から来た地味な女の子という感じで、おとなしくて少し暗くて、あまり目立たないというのかな。イメージ的には妹みたいなところがあって、僕が好きになる女性のタイプではなかったけど、日本史のクラスでは男子からかなり人気があった。
写真は日本史の1年上の(民青系の)人が療養のために国鉄・京都駅から列車で帰郷するのをみんなで見送りに行った時に発車前の車内で撮影したんだけど、彼女も来てたんだな。
歴研の方は自分は近代史部会に入って1年生の時は7月の日本史夏期講座とかに参加したけど、彼女は歴研に入らず部落研だったから、サークルで一緒になることはなかった。
立命館大学の第18回夏期日本史公開講座は、歴史学研究会と日本史クラスなどからなる実行委員会の主催で、「民族と国家」─われわれの歴史像への歩み─と題して1967年7月17日(月)~23日(日)の連夜、広小路キャンパスの清心館9号教室で開かれた。末川博総長をはじめ14人の講師が講演したほか、座談会なども行われた。
☞新入生歓迎茶話会
西山:生協活動に入ったのは夏くらいからだけど、クラスで生協総代に選ばれた。クラスの行事の幹事みたいな役割をしたり、ガリ版で資料を作ったりするのが好きだったこともあって、クラスで誰を生協総代に選ぶかという時に「お前が一番にやれ」となった。まあ生協の方が性に合っててよかったし。学生大会とかは耐えられんから。
でも総代で参加したあの時の生協総代会はもめた。当時の立命生協は民青系でない学生が理事で実権を握ってて、それを替えてひっくり返すという…生協の「民主化」と言ってたことがあった。
立命館大学生協の第11回生協総代会は1967年7月1日(土)午後6時から広小路キャンパスの存心館16号教室で行われ、総代と傍聴の学生ら計210人が参加した。議事運営が混乱して7月2日午前10時までかかった末、総代140人のうち90人を占める共産党・民青系提案の議案等が全て可決され、新しい理事・監事や活動方針を制することになった(「理事構成に変動、修正案が承認される─生協総代会」『立命館学園新聞昭和42年7月11日』(立命館大学新聞社、1967年)参考)。
民青・共産党系では、自らの勢力下にすることを「民主化」と独自な表現をしていたが、「立命館大学生活協同組合においても、67年7月の総代会において、いわゆる「民主派」が多数を占めるに至っていた」(立命館百年史編纂委員会「立命館における「大学紛争」とその克服」『立命館大学百年史通史二』(立命館、2006年))。
それが取っ掛かりで足を突っ込むことになって、あとはぶっちゃけ学生時代は卒業するまでずっと生協活動だった。生協のアルバイトもずいぶんやった。看板が得意だったのでセールの看板をペンキで書いたり、セールのビラをガリ版で作成したりした。学生運動の立て看板やビラと違って生協のは普通の字体だけど。最初はボランティアのつもりが、生協の人から「ガリ版作りの研修会に行ってくれ」とか「悪いんで、アルバイトで雇う形にするから」ってなった。
そのあたりから興味があって生協組織部のメンバーになった。組織部のメンバーは各学部から出ていて、自分は文学部。学生理事の手前の段階と言ったところだな。生協の大会にも行ったし、高校生の時に新聞部だったこともあって立命生協の新聞の編集にも携わった。ついには学生理事までやったから、かなり突っ込んだわけで。
三浦は自分と同じ生協の組織部のメンバーで産業社会学部から出ていた。だから僕は生協で一緒だったし生協の職員旅行なんかに2人とも参加したことがあるくらいけど、文学部の連中は学部が違うから彼のことをあまり知らないんじゃないかな。
三浦は産業社会学部の運動の中で、ワァーッとやっていく〝闘士〟だった。マイクを持たせたらワァーワァーワァーと勢いがあった。確か新潟県の男だった。ただ、〝やんちゃ〟で〝がさつ〟で、髪形もぼさっとした感じで…、まああんまり清潔ではなかったし、もう一つその…、ねえ。
だから、後で長沼から「高野悦子が三浦さんのことが好きだ」ということを聞いたけど、イメージ的には“何でこんな男がいいのかなあ”ってすごくびっくりしたな。ただ彼女が片思いで思ってただけと言うか、接点がないし、2人でどこかへ行ったとか実際に付き合ってたことはなかった。
そうだったんだ。1年生の時に好きになってて…、そうだったんだなあ。
この時は東京行きの夜行の急行列車だった。途中の名古屋駅できしめんを食べたから。11月18日(土)に渋谷公会堂で開かれた大会のことも覚えてるし。でも見送りに来てた記憶はないけど。
記憶にないんだなあ。ところがメモだと、このころ山科には午後5時ごろ行って11時前に帰ってるようだな。向こうに何をしに行ったのかな。これは高野悦子のアパートに行くつもりではなかったはず。たぶん長沼の下宿に行って留守だったんで、同じ山科の高野悦子の所に寄ってみて、一緒に長沼へ行き直したんじゃないかなと思う。
☞長沼さんの下宿
これこれ。全然覚えてない。本で日記を読んで初めて知って、エーッて。その場では何となく言っただけだと思うけど。
『二十歳の原点序章』の記述にはないが、これより前の1968年1月23日(火)も、後期試験を控えて、長沼さんの下宿に長沼さん、西山さん、高野悦子の3人が集まって一緒に勉強をしている。翌日の一般教育科目「社会科学概論」の試験勉強とみられる。
☞1968年2月6日「社会科学概論─桜井さんがまとめたものを写して、それをだいたい覚えて書いた」
☞後期試験
西山:これは電話だった。広小路キャンパスの存心館1階東側にあった生協本部の事務所から電話した。日記では日曜日に書かれてるけど、日曜日に大学へ行くことはなかったから、電話したのは前日、10月19日(土)の夜だったと思う。同じ生協組織部だった三浦もいつものように事務所で横にいた。
10・21は「国際反戦デー」で、当時は反ベトナム戦争で一つの大きな集会があって、各部でみんな応援を頼むということになって、〝電話オルグ〟とでも言うのかなあ、数えるほどだけど自分の心当たりのある人たちに参加をお願いする電話をかけてた。
僕が高野悦子の嵐山の下宿に電話した。そしたら彼女につながったので話をした。
そのあと、横にいた三浦に「お前、ちょっと出ろ」と言った。「三浦、高野悦子や頼む」と受話器を渡した。それで三浦が受話器を受け取って電話に出た。彼も集会の参加のお願いの電話だということはわかってるし。
三浦に電話を代えたのは、もう何も考えずに軽い気持ちだった。ざっくばらんに、お前のこと好きなようだから頼むと言ったような感じで。三浦もまた彼女が自分のことを好きだっていうことは知ってたし。
電話をめぐるやりとりは、もう50年近く前のことだけどはっきりと覚えている。
だから本で日記を読んだ時にショックだった。「あの西山のやつめ!」って思われてたと考えると。
三浦のことを好きだというのを聞いてはいたけど、彼女がこんなに一生懸命にせつなく、真剣に思い詰めてというところまでは全然知らなかったし考えたこともなかった。あの〝がさつ〟な男だもん。読んで初めてわかったから。
そんなにも傷つけて、大変なことをしてしまったなと思った。若気の至りかもしれないけど…軽薄だった。他人(ひと)の気持ちに思いが至らなかった。好きだということを知ってて、その恋愛感情を使って三浦に頼んでるから、「かつての恋愛感情に訴える形」と言われると、その通りだ。
軽はずみで間違ったことをしてしまい、ものすごい反省点だ。今でも本当に申し訳ないことをしたと思う。本を手に取ってから40年以上になるが、一生の戒めにしている。
西山:長沼を通じての接点ではあったけど、このころまで高野悦子とずっと仲は良かったと思う。片一方で、これも本を読むまで知らなかったけど日記の1968年2月10日(土)に「きのう西山さんをみていて、奥君と二重写しの存在にみえてきた」と書いてあって、それも知らなくて読んで驚いたけど。
それが、この電話の一件がきっかけで僕らから離れて、彼女が全共闘の方へ行ったのかなあ。大きなターニングポイントになったんだと本を読んで思った。
彼女の嵐山の下宿には一回だけ行ったことがある。学園紛争やってたころだから、たぶん1969年1月じゃないかと思う。こんな「ちくしょう」なんて書いてること知らないもんだから、長沼と一緒に彼女の部屋を普通にオルグのつもりで訪ねた。
そしたら同級生で知ってる牧野が出てきて、「もう二度と来ないでほしい」ときつい口調でバーンと言われて、それもものすごいショックだったなあ。
あの時に高野悦子の顔を見たのが最後だった。
「奥君」は奥浩平のことである。
☞二十歳の原点1969年2月6日「牧野さん」
☞青春の墓標
☞原田方
柳月堂は、京都市左京区田中下柳町のベーカリー・喫茶店。店は現存する。
京福(現・叡電)叡山本線・出町柳駅前の建物は建て替えられている。オーナーは台湾出身で、出町柳駅前で「中国料理・柳月」も運営していた。 喫茶店に現在のような〝名曲喫茶コーナー〟はなく、西山さんは「当時はコーヒー飲みながら、みんなで普通にしゃべったり新聞読んだりして。バックに音楽が流れてきたら、“ああクラシックだなあ”という…」と話す。「今の〝名曲喫茶〟はお堅くて静かにするよう特化してるから、もう簡単な気持ちじゃ入れなくなったなあ」。
☞みゅーず
高野悦子が残した日記の文章の強さから、西山さんについて読者の印象が悪いのはやむをえない。
しかし実際に会った西山さんは、真面目で〝まめ〟な人だ。年齢を重ねた面もあるかもしれないが、ガツガツしたところがなく、「自分はこんなに他人(ひと)に嫌われることはあまりなかった」という言葉には説得力があった。
「絶対にいけないことだったから」。西山さんは真摯な表情できっぱりと反省を語った。受け止めたい。
※注は本ホームページの文責で付した。
インタビューは2015年5月23日に行った。
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