高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 5月 5日(月)
 晴、夜おそく雨
 昼間とても暑かったせいか、体がだるかった。
 暑い陽ざしの中を起き出す。

 京都:晴・最低12.0℃最高27.3℃。午前中は雲が少なく晴れたが、午後11時ごろから小雨になった。

 きのうの夜は「戦後日本の歴史」を少し読んだだけで眠った。
戦後日本の歴史表紙 井上清『戦後日本の歴史』(現代評論社、1966年)である。480円。戦後日本の政治や国際関係について、雑誌『現代の眼』掲載の2論文をベースに大幅な書き下ろしを加えて解説する。「激動の20年を生きた日本国民の歩みをヴィヴィッドに解明し混迷の現代の意味を問う待望の戦後史の決定版」。井上清(1913-2001)は当時、京都大学教授。。
 「戦後史は「大東亜戦争」の全面否定から出発し、日本に二度と軍国主義・帝国主義をはびこらせないための足場はどこにどうしてきずかれるかを探求する視点に立ってのみ、正しく理解されるであろう」(井上清「はじめに-「大東亜戦争」の全面否定から-」『戦後日本の歴史』(現代評論社、1966年))
 5月2日(金)に立命館大学の図書館で借りた。
☞1969年5月3日「図書館で本を借り」
 昼食後久しぶりにFMのジャズをきき、

 NHK-FM5月5日午後0時15分~:ジャズ

 煙草と「戦後学生運動」がほしいので
シリーズの広告資料戦後学生運動第1巻表紙 「戦後学生運動」は、三一書房編集部編『資料戦後学生運動』(第1巻~)(三一書房、1968~)のことである。この時点で第3巻まで出ている。当時各巻2,800~3,000円。
 本(ウェブスターの辞書と米語の世界地図と学生百科事典)を売りに行った。

 高野悦子のために父・高野三郎が前年に買ったものである。
☞二十歳の原点序章1968年2月21日「おとうさんが、かっこにはWebsterの辞書と英語の地図をかってくれ」

 三〇〇〇円位になるだろうと思ったが、

 『資料戦後学生運動』が第1巻が3,000円のため、このような記述になる。

 折から今日は祝日で京極通りは「繁栄」と「平和」に満ちあふれているのに

 京極通りは、休日の観光客でにぎわっていた新京極通と解される。実際に自転車で本を売りに行ったのは、一本西側を通る寺町通である。
 「そのむかしの四条河原のにぎわいは、屏風画にとどめるくらいで、明治以降は新京極に移った。東京極が寺町となり、その寺町の東にそってつくられた新京極は、もとは三条よりの誓願寺前に立並んだ縁日にはじまったものらしい」「新京極が京都の大衆たちの娯楽センターとなったのも、当然であろう」(林屋辰三郎「河原の生活」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))
新京極通地図新京極通
☞二十歳の原点序章1968年4月17日「立命から四条まで寺町通りを下って古本屋あさりをした」

 そのあと、御所で一服。

 ここでいう「御所」は、京都御苑のことを呼んでいる。
 京都御苑は、京都市上京区丸太町通烏丸東入ルにある、当時は厚生省(現・厚生労働省)が管理していた公園である。現在は環境省が管理している。
京都御苑

 初夏の五月の空を風が流れゆく

 午前中は青空だったが、午後3時ごろは雲が広がり、南西の風6.2m。

 従食を出たときポパイ氏に会う。

 ポパイ氏は、中村のことである。
従業員食堂
中村

1969年 5月 7日(水)
 晴

 京都:晴・最低5.8℃最高26.2℃。午前中は雲が多い時間帯があったが、午後は快晴になった。

 スキー道具一式を売って「資本論」を買うか。
資本論広告 この記述にある「資本論」は、カール・マルクス著マルクス=エンゲルス全集刊行委員会訳『資本論』(普及版)全5冊セット(大月書店、1968年)のことである。当時2,500円。
 大月書店では「たくさんの労働者、学生の皆さんの強い要望に応えて普及版を刊行しました。学習意欲に燃えるすべての人びとに喜んでいただける文庫版と変わらない安い定価。しかも正確、厳密でわかりやすい翻訳。長期にわたる研究、学習に耐え得る堅牢な造本の上製本です。全国で圧倒的な好評を博し、学習会、研究会、講座などのテキストに使われています。この普及版資本論を恒久的に出版することによりマルクス経済学の研究学習に寄与できることを念願しています」と紹介している。
☞1969年5月8日「やはりスキーをやめて「資本論」にすべきか」
高野悦子のスキー道具(遺品)

 どこかに、この広い宇宙のどこかに私をみつめているsomeoneがいるにちがいない。

☞1969年5月8日「どこかにsomeoneがいつでもいるってね」

 (とうとう買っちゃったんだ。定価一〇〇〇円也の彼の詩集を)

思潮社版石原吉郎詩集 買ったのは、石原吉郎『石原吉郎詩集』(思潮社、1967年)。当時1,000円。「サンチョ・パンサの帰郷」、「いちまいの上衣のうた」、「棒をのんだ話」を所収。「シベリヤの強制収容所体験をもちつづけ、孤独な心で不可思議な魅力あふれるうたを織りなす詩人の全詩集を収めた」と紹介された。
 「私の意識に常にあったものは、詩における「うた」の復権ということであった」(石原吉郎「あとがき」『石原吉郎詩集』(思潮社、1967年))
☞1969年3月15日「石原吉郎の詩集を早く手にとりたい」

 給料もらって久しぶりに金ができたので

 アルバイトの給料は前日の5月6日(火)に受け取っている。
☞1969年4月24日「あと五〇〇円余円で十日間を暮さねばならぬ」

 ジャズをききながら「賃金、価格、利潤」を読み通す。

 マルクス著『賃金、価格、利潤』(文庫版)。

 そのあと上きげんでバイト先に。

シアンクレールからバイト先へ

 五〇〇名とあまり混んでいなかったので、

 京都国際ホテルは客室700人収容だったので、京都の春の観光シーズン中にしては、7日(水)は3連休(5月3日(土)・4日(日)・5日(祝))が終ったあとの平日で、500人だと混んではいなかったという認識になる。

1969年 5月 8日(木)
 朝起きてラジオのスイッチをひねり、モーツァルトの初期のピアノ曲をきく。

 NHK-FM5月8日午前9時00分~:家庭音楽鑑賞「モーツァルト『田園舞曲集』」。

 晴れやかな初夏の陽の中で

 京都:晴・最低12.1℃最高29.1℃。終日、快晴だった。

 掲示板には新年度のカリキュラムが発表され、その平和なる人々は懸命にそれをのぞいていた。生協の食堂は相変らずの混みようで、のんびりとした騒然さ。

 文学部掲示板は、清心館1階に、生協の食堂は地階にあった。文学部(一部)は5月6日(火)から新年度を開講していた。
清心館

 しかし、ひとたび恒心館にいくと、そのまやかしは、はっきりと打ち破られた。

 恒心館のバリケードは続いている。
恒心館

 畜生! やはりスキーをやめて「資本論」にすべきか。

☞1969年5月7日「スキー道具一式を売って「資本論」を買うか」

 バイトが終ったあとで屋上にいってね、星空を眺めながら煙草の煙を夜空にプウーッと吐き出しちゃった。

 京都国際ホテルの屋上である。5月8日は夜遅くも晴れていた。
河原町通方向の夜景
京都国際ホテル

 どこかにsomeoneがいつでもいるってね。

☞1969年5月7日「この広い宇宙のどこかに私をみつめているsomeoneがいるにちがいない」

 体をきたえる準備運動として各闘争委の部屋掃除をシヨウゼ

 立命館大学全共闘の各学部の闘争委は、恒心館にあった。

 決意。私はスキー道具一式を売却し、その金で、「資本論」およびその他の本を買うことを、ここに誓います。
高野悦子のスキー道具(遺品)

 決意したものの、高野悦子は結局、スキー道具一式を売却しなかった。
 スキー道具は下宿の部屋に残っていた。関係者が保管していた。貴重な遺品であり、謹んで紹介する。

スキー板とケース
 スキー板は小賀坂スキー製作所(本社・長野市)の当時主力商品だった「OHP・オガサカニューライン」である。
 小賀坂スキー製作所は国内初のスキーメーカーとして創業し、戦前に宮内庁へスキーを献上。1958年に株式会社となり、スキー選手だった小賀坂広治が初代社長になった。
 元々競技用スキーを手掛けていた同社は、“技術屋”出身である小賀坂広治の経営方針の下、1960年代には主に一般向けスキーを生産。その製品はインストラクターや上級者向けとして位置付けられていた。
メーカーとブランドハンドメイドと材質
 「HICKORY OHP」の表示は両面ヒッコリーの合板を意味する。ヒッコリーは弾力性があるためスキー板の材質として優れていた。国産の手作りで表面はプラスチックの青色、滑走面はポリエチレンでインターロックエッジになっている。
 1968-69年シーズンにおける参考小売価格は10,800円。小賀坂のウッドスキーのラインナップでは最高級に位置し、国産のウッドスキー全体の中でみても最上位の一つだった。ただこのころには比較的高価なメタルスキーやグラスファイバースキーがすでに存在し、輸入スキーはもっと高額だった。
 形は先端が鋭角で幅が狭いいわゆるノーマルスキーで、全長は180センチある。当時のスキー板の長さの基準は身長プラス30センチを標準的な目安としており、180センチは成人女子用では短い。
 スキー板は日本では1990年代末になって現在のカービングスキーが主流に取って代わり、長さの基準も身長マイナス10センチ程度に変わっている。
ノーマルスキーホープマーカー
 スキー板にブーツを着脱する金具であるビンディングは、日本のホープ社が輸入元で西ドイツ(現・ドイツ)・マーカー社製の「ホープマーカーLDRスーパー」が装着されている。1968-69年シーズンの参考小売価格は3,500円。
 ホープマーカーはかかと側でワンタッチで着脱できるしくみで、当時最もポピュラーなビンディングだった。一定の力がかかると靴からスキー板が外れるセーフティ・ビンディングのため、スキー板が流れていかないように赤色の革のリーシュコード(流れ止め)がセットになっている(「'69新製品と主力製品・誌上展示会」『スキーフレンド9号』(大河出版、1968年)参考)
 スキー板は朱と緑のツートンカラーのケースに入れて保管していた。
保管していた状態
☞1969年1月2日「家族五人で正月を温泉とスキーで過そうという訳である」
高野悦子の通学定期券(遺品)

 今日よんだもの。「賃金、価格、利潤」「石原吉郎詩集」

☞1969年5月7日「定価一〇〇〇円也の彼の詩集を」「賃金、価格、利潤」

1969年 5月11日(日)
 一二・二〇 PM

 那須文学社版の記述。昼すぎである。以下、「九日、中村氏は仕事の始まる前パントリーにいた」に続く。

 中村氏は仕事の始まる前パントリーにいた。
パントリー
 パントリーはホテルにある各レストランなどの配膳室の意味である。京都国際ホテル2階メイン・ダイニングでは厨房の南側にあった。
2階平面図
 ホテル2階のうち高野悦子がアルバイトしてい西側部分は当時、下図のようになっていた。

2階周辺図パントリーの位置
 メイン・ダイニングのウエイトレスは、地下1階から従業員階段・従業員エレベーターで2階に上がって、厨房とパントリー(厨房の一部)の間を通って、ウエイトレス控え場所付近に向かう動線になっていた。

 そのあと吉村君から中村氏にはステディな関係にある女の子がいるときいた。

 女の子は京都国際ホテル1階グリル入り口北側の売店で勤務していた女性とされる。当時のホテル関係者も、二人連れの様子を何回か見かけたことがあるという。

 文闘委のニャロメ諸氏とあそんで、落書きをして

 文学部闘争委員会のあった恒心館での出来事である。当時バリケードにいた学生も恒心館にネコがいたと話している。
☞1969年4月29日「文闘委の部屋のペットちゃんのニャロメ(猫)」

 シアンクレールで涙を流したあと幾らか元気をとりもどしたが、ジャズのリズムになかなかのれなかった。

シアンクレール

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