この時、集会後に話した「亀井さん」に話を聞いた。
亀井さんは当時、立命館大学全共闘文学部闘争委員会の有力メンバーとして活動していた。文学部日本史学専攻の4年生(1966年入学)で高野悦子より1学年上である。
亀井さんは『二十歳の原点』に名前が登場する最後の立命館大学関係者でもある。
亀井:高野悦子は非常に印象的な子だった。
まだ彼女が大学に入りたてのころ、寺院かどこかであった新入生歓迎の集まりへ来ていたことも覚えてるね。その時は、来ているなというくらいの印象だった。何かいろいろと真剣に物を考えてる子だったし、最初は民青の方により魅かれたんだろう。
☞日本史専攻新入生歓迎茶話会
そのあとも同じ日本史学専攻で何らかの関係はあったかもしれないが、いろいろつながりができたのは、ずっと後のやっぱり闘争の時だった。その時はもう民青じゃなくて、我々の文学部闘争委員会(文闘委)の方に参加しててね。
いつから見かけたかは覚えてない。中川会館、恒心館、京大…、少なくとも恒心館までは彼女の同学年はいっぱいいた。あのころいろんなテーマでデモや円山公園の集会とかしてたけど、たくさんいた後輩の一人として、早くから視野の片隅で全共闘のデモや集会に“彼女が加わってるなあ”“デモ隊にいるなあ”と思った気がする。“あれ?最初、民青やったのになあ”みたいなね。
ただ彼女は急に来た感じじゃなかった。もうその時にはごく自然に来てたみたいな気がした。
向こうからべらべら話しかけてきたり、同じ年ごろの女子のようにキャーキャーすることもなかった。小柄で年下に見えて、話をしてもすごくおとなしいんだけど、彼女と同学年の中では印象的で、“何かしっかり考えてるな”と思った。
☞恒心館
全国的な学生運動では例えばパリに始まる五月革命のうねりみたいなものがあったけど、立命館大学では基本的にそうではなかった。当時の立命館は、我々からすれば閉塞状況と言うか、民青と共産党が強くてどんどん押し込められていた。そのうっぷんが〝爆発〟したのが立命館闘争だった。
文闘委は闘争の中心として頑張っていた。同じ広小路キャンパスの法学部とも連携を取ったけど、基本的に文闘委で一つ完結していた。その中の一つが日本史闘争委員会(日史闘)で、互いの人間関係も濃く家族意識があるくらいだった。
文闘委や日史闘と言っても上部組織とか下部組織とかではなかった。寄り集まったのが文闘委で、デモで動員をかける時などは文闘委としてやっていた。組織体があって委員長や書記長がいるというより、もう少し緩くみんながそれぞれの思いで集まっていた。
☞元・立命大文闘委リーダー・中村大蔵氏「静かにほほえんでいた彼女」
それで文闘委や日史闘では自分の学年が先鋭的で、Nや私がリーダー役のように引っ張っていた。反民青・反共産党のスタンスだけじゃなく、ノンセクトと言うか反セクト。組織として権力を目指しているという意味では要するにみんな同じではないかと批判的な視点だった。権力を目指すとその中で一つのヒエラルキーができて、そのために個人の自由がどんどん奪われていく。考えも柔軟にならず、決ったことは絶対なものとして信じ込む。そういったことに反発したのが文闘委だった。自由主義者が多くて、自由なのが好きな、もっと言えば気ままな連中が多かった。その中で私も思想的な意見を言っていた。
彼女は全くのノンセクトだった。だから我々に共鳴して入ってきて、一緒に運動したんだと思う。
☞1969年4月28日「さしあたって日本史闘争委員会と行動を共にしよう」
☞御堂筋デモ参加の立命館大同級生「彼女からもらった1本のロングピース」
ただそれは明確な綱領や戦略、闘争方針といったものは事実上なく、その場限りの脈絡のない運動だった面があったことも否定できなかった。さらに機動隊が入ってきて〝武装解除〟じゃないが、我々は広小路を追い出されて京大の方に行った。そのまま流れ込んだんでまだ結構人数はいて、ずっと冗談半分で自虐的に「亡命政府だ」なんて言ってたけど、そんな立派なものは何もなかった。組織の体すらも成していなかった。
そういう意味で6月13日は「立命館闘争勝利報告集会」と言っても、もうかなり自暴自棄な、捨てばちな気持ちになっていた。勝ったら何をするかというと〝復学して今まで通り勉強させてくれ〟だろうけど、もうあれだけ暴れたわけで、代償としては大きすぎた。それに比べて民青・共産党はきちっと一歩ずつ固めていて寸分の隙もなかった。京大のころはもう運動の展望が見えなくて、みんな〝次に自分はどうやって生きるのか〟を決断しないといけない状況だった。彼女もどうしていいかわからなかったんじゃないか。
☞「立命館闘争勝利大報告集会」告知ビラ
白亜荘は、京都市左京区吉田二本松町にあるアパート。建物は現存する。
1969年6月13日の夜、彼女が急にアパートを訪ねてきた。
どうして来たのか覚えてない。文闘委の中で自分は先頭に立ってみんなに思想的な意見を言う役割だったこともある。また自分は二浪してて同級生より2歳上で、さらに彼女は学年が1年下だったこともあったのかもしれない。精神面で頼って相談しに来たんじゃないかなあ。でもまあみんな来てたから。特別な何かがあったわけではなかったと思う。
その時は二人だけで座って話した。それ以前も話をすることはあっただろうけど、本当に折り入ってというか、まともに面と向かってというのは、初めてだった。まだ6月だけど、西日が強くあたる暑い部屋で、夜も窓も開けっ放しにしていたと思う。
京都大学本部キャンパスで行われた立命館闘争勝利大報告集会は午後5時に終わり、参加者のうち約300人が立命館大学広小路キャンパスまでデモを行った後、再び京大に戻ってきていた。
彼女と話した中身は覚えてない。闘争の本質は何だとか、もっと個人的な生き方についていろいろ話したのかもしれない。いずれにせよ整理された建前の話ではなかったはず。もう何か状況が見えなくなってる、あの局面の中で“自分はどうやって生きて行ったらいいのか”みたいな相談だった気がする。
ただその時、彼女は別に死のうと思ってたわけじゃないだろう。かなり思い詰めてはいただろうが、彼女だけでなくて思い詰めていた人はいっぱいいたし、特に彼女がどうこうという意識はなかった。話したあと、彼女はそのまま帰って行った。
後にも先にもアパートの部屋を訪ねてきたのはこの時だけだった。
亀井さんと高野悦子はともに6月15日(日)の御堂筋デモに参加しているが、その時に会ったかどうかははっきりしない。
☞京大Cバリ
その何日か後に彼女が自殺した。知ったのは早かったと思う。彼女が死亡したとわかった翌日くらいには誰かから聞かされたと思う。京大の中でじゃないかな。
亡くなったことがショックで記憶が鮮明に残っている。今思えば彼女は、我々先輩から生き方も含めてどう考えているのかを聞きたかったんじゃないか、不十分にしか伝わらなかったけど。もっとちゃんと話をじっくり聞いて、有益なことを言うことができたのではなかったのか。
もちろん当時は全共闘周辺で自殺した学生が何人もいた状況で、その一人として彼女の死はごくプライベートな出来事であり、直接学生運動と結び付いたというわけではない。
ただそれ以上にショックで、あの日、彼女が話に来たことが何らかのサインだったと思うと、助けることができなかったのか。最後のサインを見逃したのかなあ…、そういう悔いがずっと残っている。
亀井:私が拘置所から出てある程度たって少し落ち着いて、自分の裁判が始まったころ、高野悦子が亡くなって1か月くらいかな。彼女のご両親が栃木県から京都に来ていて、その時いた我々日史闘のメンバーと会う機会があった。京都市役所のすぐ横に古い喫茶店があって、いろいろとお話しをさせてもらった。
そこでご両親から「娘の日記があるので、まとめて出版したい」という相談のような話があった。単行本や文芸誌といった段階ではなく、まだ“何か形にまとめたい”“ゆくゆくは活字にしたい”ということだった。
私はその時、当時の雰囲気として“それはちょっと、本人の遺志と違うんじゃないか”と思った。全共闘運動の底流に存在した、既成のマスコミや出版文化への拒否感。そこで語られる「戦後民主主義」といったきれいな言葉と実際のギャップへの不信もあった。日史闘に一緒に参加してた仲間も同じ意見だった。
“それはちょっと、どうかなあ”、我々の考えをきつい言い方ではなかったが、それとなく伝えた思う。
そのころは子どもを持つ親の心情や、子どもを失った時の喪失感とか、そういうお父さんお母さんの気持ちについて思いを巡らすことなく、勝手な運動をワーワーやってる自分たちの思いだけを言っていた。
やっぱりお父さんお母さんの気持ちになれば、喪失感の中で、自分の子どもを何とかして自分の記憶にとどめたい、みんなに知っておいてほしかっただろう。
本になったのはもうしかたがないことだと思っている。
亀井:「日本史闘争委からの報告」…。当時こういうものを書いてたんだ。もう忘れてたな。あのころはガリ版のビラとかいっぱい書いたりしてけど、自分たちで発行したビラの類はもう手元にはない。
何か立派なことばっかり言ってるね。こうやって影響を受けて一緒に活動をやってもらった人がいるんで、〝罪の意識〟と言うか、今までずっと黙っていた。
とりわけ高野悦子が亡くなったことは、仲間を一人死なせたということで我々全員に衝撃があまりにも大きかった。彼女の葬儀などに出なかっただけでなく、ずっと尾を引いた。いまだに『二十歳の原点』の本は見てない。
自分の中でも折り合いが着いてなかったこともあった。自分にとって全共闘運動というものが一体何だったのか、つかもうとしながらいまだにつかめてない。
何となく運動のリーダー役のようになってしまったが、立命館闘争の中でどう位置付けられるのか、大きな歴史的な流れについての自分なりのとらえ方。そして私の個人史的に見た時、闘争にいた自分って何だったのか。この両方がなかなかうまくつかめぬままにずるずる来ている。
書斎に当時の雑誌が残っている。40年、50年前に論壇を構成していた『展望』や『現代の眼』、『現代の理論』といった雑誌がいまだにある。ボロボロになりながら積んである。要らないはずなのに捨てるに捨てられなかった。
だけど一度はっきりさせないといけないと思う。自ら総括できずに、もやもやとしたものを引きずって、このまま死ぬわけにいかない。
そんなことを言っているうちに私ももうすぐ70歳になる。
☞1969年1月10日「「展望」や「現代の理論」などを読んですごす」
☞1969年1月15日「ジャーナルや、現代の眼、展望を読んだ」
2015年春に京都で当時の日本史研究室の関係者の集まりがあった。亀井さんも参加し、日本史学専攻の同級生や一緒に活動していた人たちと顔を合わせた。酒席では、当時の運動は一体何だったんだとか、その後のそれぞれ個人的な進路について話が出たという。
「みんな自分のことをよく覚えてたよ。イメージが変わってびっくりしてたけどね。当たり前の〝サラリーマン〟になってたから」。亀井さんが苦笑いをした。
※注は本ホームページの文責で付した。
インタビューは2015年6月28日に行った。
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