京都:晴・最低9.0℃最高23.8℃。午前中は雲が少なかった。
ダウンビート三条店は、京都市中京区木屋町通三条上ル一筋目西入ル恵比須町にあった喫茶・スナック。
1階が喫茶(・スナック)、2階が洋酒・スナックだった。BGMにジャズが流れていた。なお姉妹店のダウンビート四条店は本格的なジャズ喫茶として知られていた。このため高野悦子は、「(三条)」と区別して表記している(下記の那須文学社版の記述参考)。
現在は、日本料理店になっている。
那須文学社版の記述は上記2つに分かれているが、わかりにくさを避けるため、『二十歳の原点』(単行本)編集時に5月26日(月)付冒頭のように手直しされたものである。
那須文学社版の記述に基づいて5店の位置をまとめると下の図になる。
田毎は、京都市上京区荒神口通河原町東入ル亀屋町にあった食堂である。建物は現存せず、現在は焼肉店になっている。
この日最後に入ったテラス・グリーンで再びカレーを食べている。
☞シアンクレール
☞テラス グリーン
この段落(ブロック)の記述は5月24日(土)のことを振り返っている。テレしたのは、京都国際ホテル男子寮である。
☞京都国際ホテル男子寮
逆鉾は、京都市中京区木屋町通蛸薬師下ル下樵木町のちゃんこ料理店である。現存する。
八代目逆鉾関の逆鉾與治郎が1966年に創業した。当時は店主の逆鉾を含め3人で店を切り盛りしていた。こじんまりとした店だが、今や京都のちゃんこ料理店を代表する存在である。京都で撮影のある俳優や南座に出演する歌舞伎役者が顔を出すことでも知られる。広告は1969年で、ちゃんこ料理は当時1人前800円だった。
☞飲みにいった・小山田さん「逆鉾で大将が」
田園は、京都市中京区河原町通三条下ル一筋目東入ル大黒町にあったスナック。
店名に「洋酒天国」の冠がついていた“洋酒喫茶”である。
ボウリング場や映画館、ダンス喫茶など当時の若者向け業態を展開していた地元資本〝田園グループ〟の一つである。歌手の沢田研二が田園グループの店でアルバイトをしていたことは有名。
建物は建て替えられ、現在は商業ビル・河原町VOXの東側部分になっている。
ビルでは「田園」の流れをくむバプ「DEN-EN」が営業していたが、2020年4月に閉店した。閉店のお知らせには「この度、新型コロナウイルスの影響により、再開予定であった5月7日以降の営業が難しく、本日2020年4月17日を持ちまして、閉店させていただくことになりました。長らくご愛顧いただき、心から厚く御礼申し上げます」とあった。
今も京都の学生が飲み会で集まるのはこの周辺が多い。
洋酒喫茶でおでんというのは現在では違和感があるが、当時はそんなに珍しくなかった。
☞ろくよう(六曜社)
「五・二三」とは、警察署に連行されたことを指す。
☞1969年5月24日③「投石してつかまるが帰される」
この文章からは、中村がろくよう(六曜社)に来て、酒に酔った高野悦子と下宿(丸太町御前通りの川越宅)まで一緒に歩いて帰ったように読者はイメージする。
しかし、ろくようがある河原町三条から下宿までは歩行距離で約4キロメートルもあり、「相当酔った」状態で歩くのは無理がある。また中村が男子寮から河原町三条まで迎えに来るというのも不自然である。
実際には、高野悦子は5月24日(土)夜、小山田と飲んだあと、ろくよう(六曜社)近くからタクシーに乗っている。中村はろくようには来ていない。
では「中村がきて、歩いて下宿まで帰る」は何を指しているのだろうか。中村はどこに来たのか。
5月24日夜、タクシーに乗って京都国際ホテル男子寮へ向かった(①)可能性が強い。
到着後、男子寮で中村を呼んでも当初〝不在〟だったが、しばらくして中村は来た(②)。そして一緒に歩いて下宿まで帰った(③)と考えられる。京都では5月24日夜遅くは小雨だった。
5月26日付記述の「やっぱり体が疲れているし、特に五・二三で精神的なショックも大きいので三杯でも相当酔ったらしい」は、乗ったタクシーと到着した男子寮での時点を振り返った記述ということになる。
『二十歳の原点』に書かれた順番の時系列でも通じるシチュエーションなので、結果として読者には、酒に酔った→中村が来た→歩きながら会話した、というイメージになってしまった。
高野悦子を家族は愛称として「カッコ」や「カッコちゃん」と呼んでいた。
悦子という名は高野悦子からみて父・高野三郎の先代が命名したもので、2歳くらいの時に姓名判断で「悦子」は良くないと聞いた両親が、縁起の良い名前である「和子(カズコ)」としたことによる。
中村の側から愛称を知るわけがない以上、高野悦子が教えたことになる。
☞巻末高野悦子略歴