高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 5月26日(月)
 晴

 京都:晴・最低9.0℃最高23.8℃。午前中は雲が少なかった。

 「ろくよう」「ダウンビート」その他で過した。

ダウンビート三条店

 ダウンビート三条店は、京都市中京区木屋町通三条上ル一筋目西入ル恵比須町にあった喫茶・スナック。
 1階が喫茶(・スナック)、2階が洋酒・スナックだった。BGMにジャズが流れていた。なお姉妹店のダウンビート四条店は本格的なジャズ喫茶として知られていた。このため高野悦子は、「(三条)」と区別して表記している(下記の那須文学社版の記述参考)。
ダウンビート地図ダウンビート跡
 現在は、日本料理店になっている。
ダウンビートのマッチ

 五・二五 一日中ぶらぶらする。〝六曜〟その他で過した。
[5月27日(火)の記述]
 おとといは一日中、喫茶店など歩いてブラブラした。
 京大で泊ったあと一〇時ごろ荒神口の「田毎」でカレーを食べコーヒーを飲み、一たん下宿へ帰ったが、またブラブラとし、六曜社、ダウンビート(三条)、シアンクレール、グリーンで時を過す。

 那須文学社版の記述は上記2つに分かれているが、わかりにくさを避けるため、『二十歳の原点』(単行本)編集時に5月26日(月)付冒頭のように手直しされたものである。
 那須文学社版の記述に基づいて5店の位置をまとめると下の図になる。
田毎からしあんくれーる

田毎

 田毎は、京都市上京区荒神口通河原町東入ル亀屋町にあった食堂である。建物は現存せず、現在は焼肉店になっている。
田毎地図田毎跡
 この日最後に入ったテラス・グリーンで再びカレーを食べている。
シアンクレール
テラス グリーン

 中村にテレしたがおらず。

 この段落(ブロック)の記述は5月24日(土)のことを振り返っている。テレしたのは、京都国際ホテル男子寮である。
京都国際ホテル男子寮

 小山田さんと飲みにゆく。「逆鉾」でちゃんこなべを食べながら日本酒をのみ、

逆鉾

 逆鉾は、京都市中京区木屋町通蛸薬師下ル下樵木町のちゃんこ料理店である。現存する。
逆鉾地図逆鉾
 八代目逆鉾関の逆鉾與治郎が1966年に創業した。当時は店主の逆鉾を含め3人で店を切り盛りしていた。こじんまりとした店だが、今や京都のちゃんこ料理店を代表する存在である。京都で撮影のある俳優や南座に出演する歌舞伎役者が顔を出すことでも知られる。広告は1969年で、ちゃんこ料理は当時1人前800円だった。
飲みにいった・小山田さん「逆鉾で大将が」

 「田園」でジンライムとオンザロック、

田園

 田園は、京都市中京区河原町通三条下ル一筋目東入ル大黒町にあったスナック。
 店名に「洋酒天国」の冠がついていた“洋酒喫茶”である。
田園地図田園跡
 ボウリング場や映画館、ダンス喫茶など当時の若者向け業態を展開していた地元資本〝田園グループ〟の一つである。歌手の沢田研二が田園グループの店でアルバイトをしていたことは有名。
 建物は建て替えられ、現在は商業ビル・河原町VOXの東側部分になっている。
田園グループのマッチ田園が入る1990年代後半のVOXビル
 ビルでは「田園」の流れをくむバプ「DEN-EN」が営業していたが、2020年4月に閉店した。閉店のお知らせには「この度、新型コロナウイルスの影響により、再開予定であった5月7日以降の営業が難しく、本日2020年4月17日を持ちまして、閉店させていただくことになりました。長らくご愛顧いただき、心から厚く御礼申し上げます」とあった。
DEN-ENDEN-EN閉店
 今も京都の学生が飲み会で集まるのはこの周辺が多い。

 「ろくよう」でおでんを食べて帰る。

田園とろくよう
 洋酒喫茶でおでんというのは現在では違和感があるが、当時はそんなに珍しくなかった。
ろくよう(六曜社)

 特に五・二三で精神的ショックも大きいので、

 「五・二三」とは、警察署に連行されたことを指す。
☞1969年5月24日③「投石してつかまるが帰される」

 中村がきて、歩いて下宿まで帰る。
中村と実際に歩いたルート

 この文章からは、中村がろくよう(六曜社)に来て、酒に酔った高野悦子と下宿(丸太町御前通りの川越宅)まで一緒に歩いて帰ったように読者はイメージする。
 しかし、ろくようがある河原町三条から下宿までは歩行距離で約4キロメートルもあり、「相当酔った」状態で歩くのは無理がある。また中村が男子寮から河原町三条まで迎えに来るというのも不自然である。
読者のイメージ
 実際には、高野悦子は5月24日(土)夜、小山田と飲んだあと、ろくよう(六曜社)近くからタクシーに乗っている。中村はろくようには来ていない。

実際はタクシーで乗っている
 では「中村がきて、歩いて下宿まで帰る」は何を指しているのだろうか。中村はどこに来たのか。

 5月24日夜、タクシーに乗って京都国際ホテル男子寮へ向かった(①)可能性が強い。
 到着後、男子寮で中村を呼んでも当初〝不在〟だったが、しばらくして中村は来た(②)。そして一緒に歩いて下宿まで帰った(③)と考えられる。
京都では5月24日夜遅くは小雨だった。
推定される状況
 5月26日付記述の「やっぱり体が疲れているし、特に五・二三で精神的なショックも大きいので三杯でも相当酔ったらしい」は、乗ったタクシーと到着した男子寮での時点を振り返った記述ということになる。
 『二十歳の原点』に書かれた順番の時系列でも通じるシチュエーションなので、結果として読者には、酒に酔った→中村が来た→歩きながら会話した、というイメージになってしまった。

 それから、中村は「かっこ(注 悦子さんの愛称)は自分を見失っているのではないか」といった。

 高野悦子を家族は愛称として「カッコ」や「カッコちゃん」と呼んでいた。
 悦子という名は高野悦子からみて父・高野三郎の先代が命名したもので、2歳くらいの時に姓名判断で「悦子」は良くないと聞いた両親が、縁起の良い名前である「和子(カズコ)」としたことによる。
 中村の側から愛称を知るわけがない以上、高野悦子が教えたことになる。
☞巻末高野悦子略歴

1969年 5月27日(火)
 傷の糸のぬける日だ。ウレシイナ。

☞1969年5月12日「病院にいきました」

 きのうも自転車を乗りまわして四条河原町をフラフラ。清水書院で西洋史の五回生に会って「裏窓」で話す。

 1969年5月27日付記述の3店の位置をまとめると下の地図になる。以下、各店順に説明する。
清水屋と裏窓と珉珉当時の四条河原町
 四条河原町は、京都随一の繁華街。1970年大阪「万国博を1年後にひかえてホテル、デパートの増改築が急ピッチだが、京の繁華街の中心四条河原町周辺でも、高層ビル建設が相ついでいる。「国際文化観光都市」の顔ともいえるこの一帯は、万国博を機に大きく移り変わろうとしている」(「四条河原町に4つのビル─万国博ひかえ〝京のお化粧〟」『夕刊京都昭和44年2月26日』(夕刊京都新聞社、1969年))状況だった。

 清水書院という名称の書店は、当時の京都に存在しない。この記述は「清水屋」または「京都書院」のことである。
清水屋
清水屋 清水屋は、京都市中京区河原町通蛸薬師上ル奈良屋町にあるレコード店。建物は建て替えられたが、店は現存する。
裏窓

 そのあと三条の「珉珉」でギョーザとジンギスカンを食べて下宿へ。

珉珉三条大橋店

 珉珉三条大橋店(現・三条店)は、京都市中京区木屋町通三条下ル一筋目東入ル石屋町の中華料理店。ギョーザの珉珉チェーンの店で、看板料理の一つがジンギスカン(写真下)である。
 珉珉は1953年、画家だった古田安夫が大阪・南区(現・中央区)の路地裏に開店した大衆向け中華料理店がスタートで、餃子を主力として急成長し、関西一円にチェーン店を持つようになっていた。
珉珉地図珉珉外観
 当時は南側に入り口があり、店は1階部分だけだった。建物は一新されたが、同店は現在も同じ場所で営業している。なお当時、珉珉チェーンには別に(旧)「三条店」が京都市中京区河原町通三条下ル二筋目東入ル大黒町にもあったため、こちらの可能性も残る。
珉珉ギョーザ珉珉ジンギスカン
☞二十歳の原点序章1967年11月18日「三条の「珉珉」で古井さん、島田さん、飯田さんと食事をし」
珉珉から下宿

 アジビラをよんでいつのまにか電気をつけたまま眠る。
 アジビラは、学生運動で集会や演説などとともに学生などに配るためのビラをいう。
 高野悦子が読んだアジビラは「文闘委の旗」の可能性がある。
文闘委の旗
 高野悦子が参加していた立命館大学全学共闘会議文学部闘争委員会(文闘委)のアジビラ「文闘委の旗 No.10」(写真下)全文は以下の通り。
文闘委の旗 立命館大学の野辺送り、あるいは闘争宣言。
 文闘委の旗No.10(1969年5月26日)
 立命館大学全学共闘会議文学部闘争委員会

 立命館の全ての心ある学友諸君!!とりわけ状況を鋭敏に感じ取り得る文学部の学友諸君!
 我々立命館大学全学共闘会議文学部闘争委員会は、大学当局の人間性を無視した闘争圧殺を満身の怒りをこめて学友諸君に訴えると同時に、如何なる非人間的な闘争圧殺にも屈せずフェニックスのごとく羽ばたいて見せる事を宣言する。
 5月20日の屈辱の日を忘れまい。その物理力による弾圧は、我々の闘争・団結の力を強めこそすれ、弱めることに決してなりはしない事を。教授達!あなた方はそういう事を歴史を通じて教えたではないか。自分自身の学問的信念を裏切って、歴史を歪曲し、支配者の論理を今や我々に強要しようとするのか。
 今や時計の針は逆転しようとしている。あの新聞社事件当時の陰湿な無気力な秩序にもどろうとしている。最初から一貫して問題提起を行ない、主体的に闘っている我々を民青・機動隊を使いながら圧殺し、もう一方で改革案なるものをチラつかせながら「これだけ譲歩したのだからいいのではないか。これ以上文句のあるやつは話す必要はない!」との態度に出ている。
 我々の問題提起と直接対決せず、自らかってに問題を設定し、そして自らを危うくしない範囲での譲歩をし、それを闘っていない部分に同意を求める事によって正当化しようとする教授会、当局の態度は見えすいている。
 当局・民青が如何にデマ宣伝をし、真実をインペイしようとも最早けっしてだまされない部分が確実に存在しているということを明らかにしておきたい。
 現在社会の亀裂にひたすら目をふせぎ、「平和と民主々義」、その象徴「わだつみ像」をあたかも実体のあるがごとく無批判にまつり上げる事は、最早、反動的・体制的意識以外の何ものでもない。我々は、幻想の合一体である戦後平和と民主々義の中の亀裂を見つめ、その亀裂を止揚すべく闘わなければならない。その過程で右翼的に分裂する部分も当然生まれてくる。我々はこの反革命部分を打倒しなければ我々の前進はあり得ない。亀裂をかくし、抽象的に「平和と民主々義」をかかげることは左翼部分を追い出し、自らの体制内での安泰をめざす党派的利害以外の何物でもない事を宣言し、亀裂を深めるため闘争を断固継続するであろう。そのためにも闘わないものの免罪符となり下っている「わだつみ像」は倒されねばならなかったのだ。
 20日立命、23日京大において大弾圧をうけ、一時的衰勢はまぬがれ得ないにしても必ずや広小路キャンパスに再生し、更なる闘争の前進を勝ち取る事を事実でもって示すであろう。
 1969年5月26日
 [20日あるいは23日における大弾圧によって、不当に逮捕され、負傷した多くの学友のため、又更なる闘争の継続のためにより多くの資金カンパをお願いします。]

京大に機動隊
「立命館闘争勝利大報告集会」告知ビラ

 民青の〝カエレ〟のシュプレヒコールの中の緊張から、五・一のメーデー会場で民主化棒でなぐられた衝撃、五・二一の弾劾集会のときに足でけられた衝撃、

☞1969年5月2日「民青に棒でポカンとなぐられる」
☞1969年5月24日①「門でこぜりあい。民青になぐられる」

 さらに五・二三機動隊の棍棒で顔を殴られ、髪を引っぱられたときに私の肉体がうけた衝撃、署に連行される時のパトカーのうるさいサイレンの響き。

☞1969年5月24日③「投石してつかまるが帰される」

1969年 5月28日(水)
 晴

 京都:晴・最高24.5℃最低12.9℃。未明の雨が朝方までに上った。

 私は何故に十九日全学バリ闘争をたたかったのか。

☞1969年5月24日「恒心館にて全学バリ闘争準備」

 そして二十日朝、私たちは機動隊の封鎖解除という洗礼をうけたのである。
 二十日早朝の恒心館および正午の機動隊の学内乱入においてあらわれたのである。

恒心館に機動隊

 ワルシャワ労動歌を怒りをこめて歌った。

 ワルシャワ労働歌は、元々ポーランドの労働運動の歌を日本語訳したもの。圧政と対決する趣旨の歌詞である。

 きのう中村にテレした。

中村

 まさしく長沼がいうように、ある人間が中卒で就職するように、あるいは高卒で家事見習いをするように、私もたまたま大学にきただけなのである。

 「長沼」は仮名であり、那須文学社版の記述での実名は「中島」である。そしてこの段落以下の記述は、『怒りを日々の糧に』所収の中島誠(1930-2012)の次の文章を受けたものである。
 「現代社会に生きる人々は、厳然たるこの階級社会のなかで、生きるために、つまりおのれの労働力を少しでも高く資本に売りつけて存在を維持するために、たまたま大学生になるのであり、たまたま中卒で、あるいは高卒で就職するのである。就職か大学受験か、と迷うことがそれほど深刻かつ重大な難問であると思うこと自体が、資本制社会の擬制の幻想に、たぶらかされていることなのだ。誰も、あなたは是非大学生になってくれ、と頼んではいないのである。大学生になることを何か、人生の必然、自然の成りゆきのように考えているところに、社会の決定的欺瞞性がある。この欺瞞を徹底的に破砕してみれば、東大や日大の全共闘学生がここ一年間闘ってきた主題の意識こそが、階級社会に生きる人間として全く正常なものであることがわかるのである。私に手紙をくれた少年のように迷うことが、いわば当たりまえなのであって、高校を出れば大学、大学を出れば就職というように、すーっと歩んでしまう精神構造こそ実は人間として異常なのである」
 「自主大学は反帝反スタつまり反体制でなければ存立できないし、反体制大学は、当然のことながら、現存の大学の否定解体のうえに築かれねばならぬから、権力との真向うからの対立によりつくられねばならない」(中島誠「混沌を越え、断絶から変革の持続へ」『怒りを日々の糧に─学生闘争の記録・栗原達男写真報告』(冬樹社、1969年))
 したがって、『二十歳の原点』(単行本)の編集時の基本ルール(友人等に限って仮名とする)に従えば、仮名ではなく、1969年5月30日での扱いと同じように、実名の「中島」で表記すべきであった。そうしないと1969年1月30日付記述「四回生の長沼さんが中心で」と同一人物と勘違いされる可能性がある。
☞1969年5月30日「朝「怒りを日々の糧に」の中島の文をよむ」

1969年 5月29日(木)
 愛知訪米阻止

 愛知は、第二次佐藤(栄作)第2次改造内閣(1968年11月30日発足)の愛知揆一(1907-1973)外務大臣のことである。当時の日米間の大きな懸案である沖縄返還問題をめぐって、首脳会談の前に愛知外務大臣が訪米して交渉を行うことになっていた。これに対して全共闘系の学生は、日米安保体制の継続と沖縄の米軍基地を恒久化するものだとして反発、羽田空港に向けて訪米阻止闘争を行った。

 清バリ貫徹

 清バリは、清心館バリケードのことである。
清心館

 四・二六、四・二八を私は何故闘ったのか。

四・二六
四・二八御堂筋デモ

1969年 5月30日(金)
 朝「怒りを日々の糧に」の中島の文をよむ。
怒りを日々の糧に 朝は、5月29日(木)朝のことである。
 栗原達男・中島誠『怒りを日々の糧に─学生闘争の記録・栗原達男写真報告』(冬樹社、1969年)は、東大闘争と日大闘争に関する写真集である。
当時580円。中島は、中島誠のことである。
 「大学という名の経営体のなかで、学生の過半数に及ぶ何万人もが、大学=経営者の希望する、企業社会への人材=労働力供給事業そのものに疑問を抱き始めたとしたら、大学はいったいどうしたらよいのか。特に私立大学の場合、国家による評価の基準は、主として第三次産業への若年労働力の回転率良き大量の、しかも年々一定の量的安定性を保持する供給場という価値によって決定される」(中島誠「歴史の断章に起つ〝終りなき闘い〟─学生闘争の主題は、人々の日常に浸透する─」栗原達男・中島誠『怒りを日々の糧に─学生闘争の記録・栗原達男写真報告』(冬樹社、1969年))
☞1969年5月29日「まさしく長沼がいうように」

 十二時頃京大着。一時になっても十五、六人しかおらず。二時ぐらいから広小路にて愛知訪米阻止の立命集会を行う。
 京大に帰って文闘委の集会。その後、京大、同志社、立命全共闘の集会。

 立命館大全共闘が間借りしている京都大学教養部(京大Cバリ)で準備してから、広小路キャンパスに向った。立命集会は存心館前で開かれた。
京都大学教養部から立命館大学広小路キャンパス存心館前で集会
 29日午後4時すぎから京都大学本部時計台前で、愛知外相訪米阻止・全京都労学総決起集会に向けた京大全共闘の集会が行われ、立命館大全共闘も参加、代表が決意表明を行った。
京大で集会京大本部時計台前

 届け出の不注意で、円山まで五月雨デモ。

 京大本部からデモで京都市東山区円山町の円山公園に向おうとしたが、申請の不手際で、デモ隊は隊列を解いた形で、東大路通を通って円山公園に向った。
京大本部から円山公園東大路通

 円山で愛知訪米阻止労学総決起集会。すわっての参加二〇〇名ほど。

 愛知外相訪米阻止・全京都労学総決起集会が、29日午後6時すぎから円山公園で開かれ、反戦青年委員会の労働者や京大全共闘、同志社大学学友会、立命館大全共闘の学生などが参加した。
 集会は、畑鉄工所の労働争議や文英堂の処分撤回闘争の労働者による決意表明で始まった。

 全金の畑鉄、

 京都市の製薬用機械メーカー・畑鉄工所では、1969年度の賃金交渉をめぐる春闘で全国金属労働組合(全金)傘下の組合側のストライキ戦術に対して、4月22日に会社側は「団交中に外で安保反対等のシュプレヒコールをしないよう改めるべき」などとして団体交渉を拒否。
 さらに組合59人のうち15人が脱退して同月29日に第二組合を結成、会社側は第二組合との交渉に応じる一方で、(第一)組合に対してロックアウトによる締め出しを行う事態になった。
 (第一)組合側は4月30日、京都地裁に対して就労妨害排除と団交再開促進の仮処分申請を行い、地裁は5月1日に団交の速やかな再開を命令したが、就労の妨害排除については5月19日、就労請求権の問題として申請を却下した。
 また(第一)組合側は京都府地方労働委員会へ団体交渉促進のあっ旋も申請、4月30日に労使双方に団交再開の勧告が行われたが、団交は再開されていない状況で、労使の対立が強まっていた。
 後の国会審議では、会社側のロックアウトについて、「「松木組」の2、30人が組合事務所に泊まっている組合員を便所も水道もないところに軟禁をしてバリケードをつくった」という指摘が出たが、政府は「松木組が従業員を監禁、軟禁したとかについて、事実を把握していないので、その点に関してはよくわからない」と答えている(第61回国会参議院社会労働委員会1969年6月26日議事録参考)

 文英堂の反戦、

 「シグマベスト」シリーズで知られる京都市の教育図書出版社・文英堂では1969年3月27日、京都大学での学生運動に参加し機動隊立ち入りの際に逮捕された男性社員に対して「就業規則に違反し、会社に迷惑をかけた」として減給及びけん責の処分を行った。
 これに対して男性社員は、処分は反戦青年委員会のメンバーとして京都大学の学生運動に参加したことや共産党主導の文英堂労組を批判したことで会社にとって都合の悪い存在だとして行われたものであるとして、処分を拒否するとともに、同僚などと「文英堂処分撤回共闘会議」を結成して抵抗した。
 「反戦」は反戦青年委員会のメンバーのことを略している。

 反帝全学連、全学連(中核)、プロ学同、

 反帝全学連は、三波全学連の流れを組む新左翼各派のうち中核派以外の連合体であり、中心は社学同だった。歌手・加藤登紀子の夫、藤本敏夫(1944-2002)が委員長を務めたことでも知られる。
 この集会で決意表明したのは反帝全学連の京都府学連からの代表である。
☞1969年2月6日「社学同が入試阻止をもちだす」
☞1969年2月17日「十数人の中核が雨にぬれ意気消沈した様子でデモっており」
 プロ学同はプロレタリア学生同盟の略で、全共闘を構成する新左翼各派のうち構造改革派のグループ。
 これらの代表は「朝鮮危機の顕在化、それにともなう、ASPACの軍事同盟化への移行、沖縄の核侵略基地化をおこなう第一ステップとして、愛知外相の訪米を佐藤政府はもくろんでおり、それを6月8日の川奈におけるASPAC闘争、大村収容所闘争、6月1日の神戸における出入国管理令粉砕闘争の第一波として闘うことを表明した」(「外相訪米阻止を確認─円山で労学総決起」『京都大学新聞昭和44年6月2日』(京都大学新聞社、1969年))

 そして現地派遣団を代表して京大全共闘が決意表明。

 現地とは、愛知外務大臣の訪米阻止のための東京・羽田での5月31日朝の現地闘争のことである。
 集会では最後に京大全共闘の代表が、学園闘争から政治闘争を闘う部隊の代表としての決意を述べた。

 そののち京都駅までデモ(四条─河原町七条─本願寺前)

 集会は午後7時半すぎに終了した。デモ隊は円山公園を出発し、祇園石段下でジグザグデモをした後、四条通を西に進み、河原町通から南下して、東本願寺前に達した。
円山公園から京都駅当時の東本願寺前
 京都駅までデモをしたのは、東京・羽田などでの現地闘争に参加する学生を送り出すためである。これら現地闘争に参加する学生は国鉄京都駅から29日夜の夜行急行列車で上京した。
現在の東本願寺前

 昼休み、広小路のキャンパスにぼんやりと坐っていた。

 5月29日(木)昼のことである。「今年1月からの立命館闘争は、5月20日の機動隊導入(恒心館封鎖解除)以降、まったくの新たな段階に入ったといえる。それは」「全共闘運動にかかわったほとんどすべての学生に見られるやるかたない無気力、脱力感である」(「立命闘争、運動論への一視点」『立命館学園新聞昭和44年6月23日』(立命館大学新聞社、1969年))
立命館大学広小路キャンパス

 五月雨デモのとき東大路通りを下りながらヘルメットにふくめんという私達学生を見るオジサンオバチャン。ふとすれ違うときに、避ける人たち。

 前日の五月雨デモのことである。

1969年 5月31日(土)
 きのう東京にて。姉と話す。父母と話す。決裂して飛び出す。

 父母からは、西那須野に戻ってくるよう説得された。
 高野悦子は「もうお話しすることはないです」と言い残して、自分から飛び出した。このあと高野悦子は所持金がないために、姉の下宿に再び戻ったが、両親とは再び会っていない。
 したがって父・高野三郎と会ったのは5月30日(金)が最後になった。

 八・〇〇PM京都につく。

 5月30日17:20東京駅─東海道新幹線(超特急・ひかり39号)─20:11国鉄(現・JR東海)京都駅

 九・三〇PM

 那須文学社版の記述。以下、「家族との訣別」に続く。この段落以下は31日(土)の夜に書かれている。

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