高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和43年)
1968年 9月10日(火)
 秋晴れの日

 京都:曇・最低17.4℃最高26.4℃。

 夏休みが終わって京都にきたときなどは、

 立命館大学の1968年度夏期休暇は9月10日(火)までだった。

1968年 9月12日(木)
 晴
 このところ朝晩と冷える。

 京都:晴・最低12.7℃最高28.4℃。最低気温が12℃台まで下がったのは5月29日(水)の12.0℃以来だった。

 サテンで牧野さんとワンゲルについて話したら自分に自信がついたのか、

☞二十歳の原点1969年2月6日「酔いながら牧野さんのところへいく。」

1968年 9月14日(土)
 雨

 京都:雨・最低18.1℃最高20.9℃。

 ワンダーフォーゲルを続けていきたいと思った。

ワンゲル部

1969年 9月15日(日)
 敬老の日 曇

 当時9月15日は敬老の日の祝日だったが、振替休日の制度がなかったため、翌日は休日になっていない。振替休日の制度が始まったのは1973年である。

 長い旅路にあって

 ヘッセの詩「白い雲」は『二十歳の原点序章』『二十歳の原点』で計3回登場している。
☞1968年6月16日「ヘッセの詩を想いだした」
☞二十歳の原点1969年3月29日「ヘッセときいて「雲」を思いうかべ」

 一体何が彼をさすらいの旅にたたせるのか
 さすらいのかなしみとは?
 よろこびとは?

 この3行はヘッセの詩「白い雲」に含まれるフレーズではなく、高野悦子による文章である。

1968年 9月16日(月)
 秋晴

 京都:晴・最低17.2℃最高28.8℃。

 現代史のレポートづくりで悩まされた一日であった。

☞二十歳の原点1969年1月15日「久しぶりに現代史の講義に出席した」

 試験間近かだから図書館は混んでいるだろうなと思ったが、

興学館(図書館)

 下宿から一歩ふみ出すと意識はかたばる。
 電車の中にもホームにもキャンパスにも、人、人、人だらけであるから。

 電車は阪急嵐山線、阪急京都本線、京都市電河原町線。ホームは阪急・松尾駅(現・松尾大社駅)、桂駅、河原町駅(現・京都河原町駅)の各駅ホームである。
原田方

 ポットやコップが乱雑におかれ、

☞二十歳の原点1969年3月8日「太宰を二、三頁読んだ後でポットのコードを首に巻いて左右に引張ったりしましたが」

1968年 9月19日(木)
 日ざしの強い一日

 京都:晴・最低16.8℃最高30.6℃。日中は雲が少ない晴れの日だった。

 今日の「概説」は、

 専攻科目の日本史概説Ⅰを指すとみられる。

 桂川の河原でのんびりと川のせせらぎをきいて、秋の陽射しをあびた。
 河原にはつり糸をたれ、
桂川の河原

 桂川の河原は、京都市右京区(現・西京区)嵐山朝月町付近の桂川右岸河川敷である。高水敷に松尾公園がある。
桂川の河原地図桂川右岸河川敷
 近くにせき(桂川5号井堰)がある。
当時の桂川の河原空撮
 京都府内の桂川では現在、冷水性のアマゴ、温水性のオイカワやカワヨシノボリなどが生息している。
松尾公園

1968年 9月20日(金)
 曇

 京都:晴・最低13.5℃最高26.6℃。

 通りに流れている小さな川に、かじかとメダカがおよいでいたこと。

 通りに流れている小さな川は、京都市右京区(現・西京区)嵐山宮ノ前町付近の嵯峨街道(京都府道29号)沿いを流れる用水路とみられる。桂川から取水のかんがい用水の一つで、当時は流量があった。
通りに流れている小さな川地図京都市松尾大社駅自転車等駐車場
 現在はこの地点の用水路は暗きょ化し、京都市松尾大社駅自転車等駐車場になっている。

1968年 9月22日(日)
 曇

 京都:曇一時雨・最低19.2℃最高30.1℃。夕方から雨。

 「ああ! 何としてもこうした心の涸れないように!
チボー家の人々

チボー家の人々表紙 「チボー家の人々」は、フランスの小説家、ロジェ・マルタン・デュ・ガール(1881-1958)の長編小説。日本では山内義雄(1894-1973)が翻訳した。ここでは新版世界文学全集29~33(新潮社、1960年)所収とみられる。定価は各巻350円。
 該当部分を正確に引用すると「ああ! なんとしてでもこうした心の涸れないように! おそれるところは、生活が、心や感覚を硬化させてしまうことだ。ぼくは老いる。神、聖霊、愛、そうした高邁な観念は、すでに昔のようにはぼくの心に響きを立てない。そして、すべてをむしばむ《疑惑》は、おりおりぼくをも食んでいる。おお、論議をすてて、なぜ全身の力を挙げて生きようとはしない? ぼくらはあまりにも考えすぎる。ぼくのうらやむのは、あの青春の意気なのだ。つまり、わきめもふらず、考え直したりすることなく、危険めがけておどりかかっていくことなのだ! ぼくは思う、いたずらにわれとわが身を反芻するかわりに、目をとじて、崇高な一つの《思想》、けがれなき理想の《女》に身を捧げることができたら、と! ああ、おそろしいのは、行きどまりになった希望の数かず! ……」(デュ・ガール著山内義雄訳「灰色のノート」『チボー家の人々第一巻』新版世界文学全集29(新潮社、1960年))
 「この作品の読者層が、一般の文学書のばあいのように、単に文学者ないし文学愛好者といった範囲にかぎられず、おどろくほど広範囲にわたり、しかもとりわけ若い人たちのあいだにおどろくほど多くの共感者を見いだしたという事実であります」
「『チボー家の人々』の世界は、第一次世界大戦の前後にわたるフランスであります。しかし、これは必ずしも、今からかぞえておよそ40余年の歳月をへだて、海をへだてての遠い世界の出来事とのみは言えません。『チボー家の人々』全巻を通じ、そこに取りあげられている問題のすべては、またその問題に直面しての人々の悩みは、そのまま太平洋戦争の前後にわたってわれわれの問題であり、悩みであり、しかも、その問題なり悩みなりは、今なお、若い人々の心のうちにはっきり引きつづいているところのものであります」(山内義雄「解題」デュ・ガール著山内義雄訳『チボー家の人々第一巻』新版世界文学全集29(新潮社、1960年))
 この小説は『青春の墓標』でも登場している。「残念!ジャック・チボーは五分の一しか読んでいないんだ(即ち第一巻)」(奥浩平「中原素子への手紙1962年4月11日」『青春の墓標─ある学生活動家の愛と死』(文藝春秋新社(現・文藝春秋、1965年)))

1968年 9月23日(月)
 秋晴れのスカッとした日

 京都:曇・最低18.7℃最高27.2℃。

 雲のかかった比叡山といい、

☞1968年12月7日「丁度比叡山のあたりから姿を現わす」

 仏語と史料講読をやっただけだが、何とかなるだろうという気持である。
2年生前期試験
 立命館大学文学部(一部)の1968年度前期試験は一部を除き9月24日(火)から9月30日(月)までの日程で行われた。
 高野悦子が2年生の前期試験時間表は以下の通り。
月日\時限 ①09:40-10:40 ②11:00-12:00 ③13:30-14:30 ④14:50-15:50
9月24日(火) 史料講読Ⅰ
9月25日(水) 英語
9月26日(木) 仏語(初級読本)
9月27日(金)
9月28日(土) 英語
9月30日(月) 仏語(初級文法)

1968年 9月25日(水)
 台風の影響で雨

 京都:雨・最高22.5℃最低20.2℃。夜になって大雨となった。
 「台風16号は24日夜、鹿児島県川内市付近に上陸したあと、勢力を弱めながら北上、25日昼には福岡・佐賀県境付近に停滞している」(「台風16号、九州中心に被害」『京都新聞(夕刊)昭和43年9月25日』(京都新聞社、1968年))ものの、「台風としての勢力はほとんどなくなったため、台風による雨などの心配はなくなったが、秋雨前線が瀬戸内海から四国を通って紀伊半島方向に伸びているので、中国、近畿地方や中部地方の山間部で100ミリ前後の雨が予想される」(「大雨の心配なくなる」『京都新聞昭和43年9月25日(夕刊)』(京都新聞社、1968年))とされた。

1968年 9月26日(木)
 雨のち曇

 京都:曇時々雨・最低19.0℃最高22.2℃。

 仏語(読本)の試験を前にしてやるだけのことはやった。

 立命館大学文学部の第二外国語の履修については、独・仏・中国語いずれも週2回4時間(4単位)の授業だったが、仏語だけは文法が2単位、読本が2単位というスタイルに分かれていた。

1968年 9月27日(金)
 雨ノチ曇

 京都:曇・最高24.0℃最低21.0℃。

 FMラジオでバックハウス演奏のベートーベンのピアノ奏鳴曲をいくつかきき、

バックハウスベートーヴェン奏鳴曲全集 NHK-FM午後8時20分~10時00分:ステレオコンサート~ウィルヘルム・バックハウスのベートーベン・ソナタ集~ピアノ奏鳴曲ニ長調作品28「田園」。
 ヴィルヘルム・バックハウス(1884-1969)はドイツ出身のピアニスト。「田園」はウイルヘルム・バックハウス『ベートーヴェン:ピアノ奏鳴曲全集=第5巻《第14番~第16番》』(ロンドンレコード/キングレコード)所収。奏鳴曲はソナタと同義語である。

1968年 9月28日(土)
 曇

 京都:曇時々雨・最低20.2℃最高24.9℃。

 山田先生の方は出席率が悪く(二回出席)、

 山田先生は文学部助教授・山田豊(1931-)である。専門は英文学。

 寺山修司の『街に戦場あり』を読みながら自慰にふけったりした。

街に戦場あり 寺山修司『街に戦場あり』(天声出版、1968年)は、作家・寺山修司(1935-1983)のエッセイ「街に戦場あり」と詩集「勇者の故郷」からなる作品集である。
 当時の帯は「果たして、現代に虚構はないのか? 人々はファンタジーをみずに、徒に現実を幻に変えようとする─戦争怪奇劇!原爆実験凄絶篇!スリルのベトナム! …だが、代りに街の中に出現した戦場をどう受けとめるのか?」「著者の最新長篇ホット・エッセイ集と故郷を喪失した英雄たちに贈る美しくも凄惨な叙事詩の雄篇『勇者の故郷』を併録─」。
 このうち「街に戦場あり」は、週刊写真誌『アサヒグラフ』(朝日新聞社)で1966年に連載された「ピクチュア・エッセー『街に戦場あり』」を集成した。ギャンブルや風俗、上京といった切り口で高度成長期の大衆が大都会の片隅に自分の居場所を見つけようとする姿を描いている。また「勇者の故郷」は競馬や風俗などを舞台とした人間模様を主題にした13の長編詩で構成されている。

 文章で性的描写が多く登場するのは「勇者の故郷」所収の「第八の歌 江梨子」以降であるが、その表現は概して詩的、抽象的になっている。
 この点について「『二十歳の原点』を残した高野悦子(立命館大学生の時、全共闘運動に参加し、69年4月に自殺)は、『二十歳の原点序章』(新潮社、1974年)としてまとめられた日記で、寺山修司の『街に戦場あり』を読み、自慰したことを書いているが、寺山修司はそのことに驚き、「俺のあの本のどこを読んで、そういう風になるのか」といったものである。けれども、寺山の書いたものには、どこかそのようなエロティシズムが含まれているのだろう」(高取英「〈価値紊乱の時代〉の煽動者」『寺山修司─過激なる疾走』平凡社新書(平凡社、2006年))と評されている。
☞二十歳の原点1969年4月10日「街に出かけよ、山に出かけよ」

1968年 9月29日(日)
 曇ノチ夕刻にわか雨

 京都:曇一時雨・最低19.2℃最高28.7℃。午後4時ごろから雨。

1968年 9月30日(月)
 曇のちにわか雨

 京都:曇時々雨・最高28.0℃最低19.2℃。

 山田先生、蜂谷先生両方とも、六十点以下にはならない。

 蜂谷先生は講師(京都大学教養部助教授)・蜂谷昭雄(1930-1986)である。専門は英文学。
 「受講届を提出してある科目で、60点以上の成績を得れば、之を合格とし所定の単位を修得したものと認める」(「単位の修得」『立命館大学文学部(一部)昭和42年度学修要項』(立命館大学文学部、1967年))とされた。
 前期試験の結果は、点数により成績通知表(受験報告)で11月に本人に伝えられることになっていた。ただし成績は優(100点~80点)、良(79点~70点)、可(69点~60点)の評語で成績証明書に表示されることになっていた。

 北山、比良、曽爾、鈴鹿、そしてついには南アルプスへ。

新人合宿
比良山地
夏合宿

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