「二十歳の原点」の最後にある高野悦子の詩「旅に出よう」が、初めて広く紹介されたのは立命館大学全共闘の機関紙だった。機関紙に詩を掲載することを決めた元・立命館大学全共闘の男性が、当時を振り返って語る講座が2025年6月28日(土)に京都市下京区のキャンパスプラザ京都で開かれた。


開いたのは大学コンソーシアム京都。立命館大学を含む京都市と周辺にある大学で構成する連携組織である。主に社会人向けの生涯学習事業「京(みやこ)カレッジ」にある土曜日の市民教養講座「京都力養成コース・京都学講座」『あなたの知らない京都旅─昭和100年の物語─』の基本講座第4回として行われた。高野悦子の命日(6月24日)に近い土曜日にあたるこの日になった。
受講料は基本講座10回で10,000円、大学コンソーシアム京都加盟校の正規学生は無料だった。
タイトルは「二十歳の原点・高野悦子とその時代-マイルストーン(里程標)としての1969年-」と付けられた。
「昭和44年(1969年)は、全国各地で学生運動がピークに達し、京都の大学も多くが封鎖され、戦後民主主義の旗手・立命館大学も渦中にありました。そのなかで、立命館大生・高野悦子が鉄道自殺をはかりました。時代の波にもまれた感と謎めいた死により、高野悦子が残した日記『二十歳の原点』は、同世代をはじめ広く共感を呼び、空前のベストセラーとなりました。同時代を立命館大生として生きた天野博が時代の雰囲気や高野悦子の見た風景を語り、川島智生が歴史的な検証を行います」。
天野さんと川島さんに会って話を聞いた。
天野博さんは1967年に立命館大学法学部に入学し、後に立命館大学全共闘の法学部闘争委員長となった。高野悦子との出会いを今でも鮮明に記憶している。
天野:一浪して立命館大学に入ったので、高野悦子と同じ学年だけど彼女より1つ上でね。広小路キャンパスは高校くらいの狭い敷地にたくさんの学生がいた。
自分がいた法学部は女子学生の比率が低くて、クラスに2、3人かな。一方で同じ広小路の文学部は女子が多くて、“ガールフレンドを探しにいこう”と思ったら文学部になるわけ。文学部が入っている清心館の地下に共通の大きな学生食堂があって、そこへ行くと文学部の女子学生に会う機会もあるなと。
新入生の時、学生食堂で並んでたら彼女が前にいた。何て言うか…学生という感じじゃなくて、本当に高校生の少女のままだった。付いて行って「一緒に食べようか」って言って。お互いに新入生の時だけど、彼女はホンワカしてて、パッと声をかけやすいタイプだった。ごはん食べながら少ししゃべって、それでよく覚えてた。
☞立命館大学広小路キャンパス
☞清心館
当時の立命館で日本史学専攻は、北山茂夫、奈良本辰也、林屋辰三郎といった看板教授もたくさんいて入試も最難関で超エリートだから、彼女もずっと優秀だったと思う。それに〝田舎〟の子だったから“京都に来たい”とか“親元から離れたい”とか誰でも考える。自分が入った法学部も末川博をはじめ有名なメンバーが並んでいた。そして学費がすごく安い〝庶民の大学〟だった。
そういう意味で彼女も私も憧れの立命館大学に入れた、この大学で勉強したいと思ってたんじゃないかな。
二度目は、1967年5月1日のメーデーだった。
天野:一回生にとって学生運動の最初の課題はメーデーに取り組むことだった。メーデーに出て京都市役所の前で僕らがグループで隊列を作って待ってたら、彼女が民青・共産党の隊列にいて通りかかった。
「えっ…出ておいで、こっちおいで」って言ったけど、彼女はキョトンとした顔をして“何で出ていかなきゃいけないの”という感じ。ニコニコ笑って“うーん”という顔をしながらね。民青とか共産党とか、そういう意識が全くなかったんじゃないか。分かってなくて何とも思ってなかったからだろう。
このメーデーの際に法学部1年生の山田吉郎氏が高野悦子と隣り合わせになって、「「まだ純朴な雰囲気でしたね。当時の広小路キャンパスから八坂神社までの行進です。彼女は京都の街をきょろきょろ眺めていたなあ」(「「二十歳の原点」孤独な闘い…現代史メモランダム第8回1969年」『日本経済新聞2022年9月5日』(日本経済新聞社、2022年))。話を交わすようになり、後に高野悦子の法要に参列したとされる。
☞二十歳の原点序章1967年5月2日「御池通りを歩いているとき」
☞民青
彼女が深く考えたか知らないけど、部落問題は非常にセンシティブで、インテリで多感な人の意識が向いて放っておけないテーマだった。だから部落研に入ったんじゃないかな。ただ立命館における部落研は民青・共産党にとって事実上いわば大きな〝拠点〟だったから、部落研のメンバーであると民青・共産党と見なされてしまうところがあった。
でも彼女はそんなに政治的な人じゃなかった。入った部落研に疑問を感じて辞めたからといって、何か特別な組織に入ることはしなかった。その意味で彼女はいわゆる〝ノンポリ〟〝無党派〟の人だったと思う。
☞部落研
次に会ったのは、もうバリケードの中だったと言う。
天野:バリケードで〝再会〟した。彼女はそんなにワーワー言わなくて目立たなかったけど、自分は“えっ”と思った。“何で”っていう感じ。
ぼくはその頃もう闘争の中心メンバーで、“彼女がどうして来てるのかな”と思いながら文学部の人に聞いたら、「もう全然違うよ」と言うから、「そう」と。でもそういう人が多かったし、あの子はああいうノンポリだから、〝スパイ〟と勘違いした人もいてなかっただろうなあ。
1968年春結成で前身の法学部連帯評議会(J連)が、1969年に中川会館でバリケード中に法学部闘争委員会(法闘委)に発展した。法学部は2年生(1967年入学)が多かったため天野さんが委員長に選ばれ、文字通り立命館大学全共闘の主要な一人となる。大学の評論誌「立命評論」での活動もしていて、冷静で論理的に主張を展開する存在でもあった。
恒心館でバリケード中だった1969年4月には、東大安田講堂事件で知られる今井澄氏(1939-2002)からの依頼でML同盟(社学同ML派)機関紙に「全国学園闘争の現段階と立命館闘争-立命館大学からの報告-」(『赤光1969年4月10日』(日本マルクス・レーニン主義者同盟中央委員会・機関紙編集部、1969年))を寄稿し、大学新聞では「法闘委闘争報告~変革的契機の蘇生」(『立命館学園新聞1969年4月14日』(立命館大学新聞社、1969年))を執筆した。
講座のタイトルにもある「その時代」の雰囲気も語った。
天野:ベトナム反戦運動が非常に盛り上がっていて、反戦闘争が学生の間で大きな課題だったと思う。そして僕はフォークがはやりだしたころだと思ってる。『二十歳の原点』にはジャズはたくさん出てくるけどフォークはあまり出てこない。でも1967年10月8日の羽田闘争に行った前後にザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』を深夜ラジオで聞いて、“変わった歌がはやってるなあ”ってよく覚えている。
1967年2月に大島渚の映画『日本春歌考』を見てデモのシーンがあったことも鮮明に記憶している。学生も読む総合誌とかもあり、1968年に入ってヘルメット姿の学生による実力闘争が新聞に大きく出るようになった。
1968年秋には東大闘争と日大闘争のバリケードがあって、「二十歳の原点」にもたくさん出てくるけど、世の中が騒然として無関心、ノンポリではいられない状況。全共闘運動がいきなり起こったんじゃなくて、そういった時代の雰囲気があった。
デモをするのが本当に〝日課〟と言うか、「またデモですか」でね。樺美智子の死といった60年安保闘争の時の記憶がまだ鮮明で影響が大きくて、“学生というのはある意味、政府に対して戦わないといけない”という気持ちを持つんだよ。
学生運動の指導部は60年安保の時の人が残ってるわけで“今度こそ勝つ”“敵(かたき)を取る”って頑張るわけ。だからもう、つい決戦しようとするから。それがいいか悪いか…今から考えたら“なんで決戦するのか”って。
立命館大学全共闘の機関紙に「旅に出よう」の詩を掲載した経緯を語った。
天野:法闘委メンバーの山田吉郎君が高野悦子と同学年で付き合いがあって、法要に参列した。その時に遺族が配布したしおりに載った「旅に出よう」の詩を私の元に持ってきた。彼女は運動の中心的なメンバーではなかったので、亡くなったことはほとんど知られてなくて、「あの高野さん」ということになった。
法学部闘争委員長として全共闘運動の全体的な活動方針を立てる立場だったが、正直これからどうしていくべきなのか、自分たちが今まで言ってきたことを続けるのか、妥協するのか。大学を追われてどうするのかという気持ちだった時に、彼女が自殺したことを聞いて大変な衝撃を受けた。
本当にどうしようかと。どうしてやったって、責任あるんじゃないかという思いも生まれた。1969年1月からわずか半年ほどの間に卒業あり、入試あり、年度初めあり、こういうことを全部、学生も学生なりに自分の人生を考えながら、闘争から去っていく人も実は多かった。

そういう中で彼女の詩をどう受け止めるか。とてもショックな事件で、この詩だけをみんなに紹介するにとどめた方がいいんじゃないかと。全共闘の終わりを象徴する気がして機関紙『コンテスタシオン第2号』に載せた。詩が初めて公開される形になった。
詩を掲載した後、誰かの紹介でお父さんの高野三郎さんに会ったら「勝手にそんなことをしないように」と強く説教された。お父さんはその時点では本の出版まで考えてなかっただろうけど、自分たちは“これはちょっ仕方ない”“あまり配らない方がいいな”って感じた。
☞旅に出よう(詩)
☞全共闘機関紙での詩の掲載
天野さんら法学部闘争委員会の仲間は1970年、立命館大学における全共闘運動の経緯をまとめたレジュメ『支配に抗う正史』の作成に携わった。
序文で「くりかえされてきた総括しきれない行動は、ついに<全共闘>の死をもたらした。7月のひとりの女子学生の死は、<全共闘>の青春をして、時代を転換するエネルギー装置の未成をよくあらわしており、<全共闘>の死の跳躍と同義である」と記した。
天野:『支配に抗(あらが)う正史』は当時のビラや、大学の達示、教授会の議論といった資料をたくさん収録し、かなり客観的に記録を書いたと思う。あとあと後世の人が開けても僕らの主張ばかり一方的でなく両方の主張を公平に、まさに〝学園闘争史〟としたつもりだ。
まとめたのは1970年6月。闘争が終わっていても、次の新入生が「どうしてこうなってるんだ」ってわれわれを訪ねて来るので、“それならちょっとドキュメントがいるな”と慌てて、でも頑張って作った。
僕が一生懸命に書いた序文で「ひとりの女子学生の死」として高野悦子のことに触れた。彼女の日記が始まった1969年1月から亡くなるまでが、立命全共闘が誕生して大学を追われるまでにピッタリ一致した。
『支配に抗う<正史>-立命館学園闘争の記録-』(立命館大学「コンテスタシオン」編集委員会・法学部闘争委員会編、1970年)は42ページのレジュメで、第1版第1刷が1970年6月5日、第2刷が6月11日。計約500部が発行され広く配られたという。その後も1971年に冊子『支配に抗う《正史》-立命館学園闘争の記録・上』として再版された。さらに1977年に立命館大学Ⅰ部文自再建会議準備会がレジュメで再版している。
天野さんは立命館大学を退学。法学部闘争委員会の仲間で1971年2月、京都市左京区に事務所を構えて不動産業「下宿情報センター」を始め、学生相手に下宿やアパートを紹介する事業を手がけた。
天野:暴力行為を振るったことがないので「退学処分」はなかった。でも退学後に大学へ再入学を申請したら、〝指導責任〟って言い出して「貴殿の責任は大きいから再入学は認めません」。しかたがないなあと。
法闘委の仲間の事業であっせんしたのは学生下宿、不動産とは言えないけどね。簡単に扱いができて、元手が要らない商売をやろうというので。しかも2月、3月だけ働いたら、あとはメシを食えると。本当に食えたかどうかな…、ぜいたくしてないから。全共闘の後に社会でいろんな〝シノギ〟をして生き延びてきた。
この経験も踏まえて、会社勤めを経たあと独立して京都で不動産業へ本格的に乗り出した。現在は京都市下京区に本社がある不動産会社を経営。マンション仲介で地元では有数の地位を占め、天野さんは京都の不動産業界の〝ご意見番〟的存在になっている。ただ、今も仲間内では「法学部闘争委員長」の肩書は健在。
全共闘後の法学部闘争委員会の動きは【水平線の向こうに】刊行委員会編著『水平線の向こうに-ルポルタージュ 檜森孝雄』(風塵社、2005年)参考。
「二十歳の原点」「旅に出よう」を再び読み直したという。
天野:「二十歳の原点」の高野悦子はごく隣りにいる感じの子で、正直というか、本当にノンポリ学生の苦悩で、あのころの全共闘運動のメインだったという意味では皆さん共感を持ったんじゃないかな。何か一人で全世界と向き合っているような過剰な意識が生まれて、革命家の気持ちになるようなところもあって。そういう過剰な意識が誰にもあった。それが闘争でガァーっと盛り上がってくるわけで。
立命館の学園闘争は特異で、彼女のような普通の女子学生が大学に対してあそこまで不信感を持ってしまうように尋常な状態ではなかった。学内の民主主義が機能せず、批判する新聞社とか構内集会の自由まで押しつぶそうとするので、“ちょっとやり過ぎだろう”“おかしい”って思う。だから民青を支持してきた彼女が全共闘側にコロコロって変わっていったんじゃないかな。
ただノンポリの人たちが全共闘シンパになった後に、次の展開が見つからないので、われわれにとってもつらいところだった。そこが一番難しく、苦しい判断だったと思う。真面目な人ほど混乱したんじゃないかな。
彼女の日記でも1月から6月までの半年の間に激動から崩壊…深い挫折感を味わっている。単に恋人に振られて亡くなったというふうには思えない。
「旅に出よう」の詩はとても穏やかでやさしい、若い女性の心の風景だと思う。詩が十分に語りかける役割と、そういうものを超えて人に与える力がある。
特に若い時は、生きるとか死ぬかといったことを不断に考える傾向がある。〝命〟って2つあって、一つはコケのようにいつ世代交代かわからないが生命力、とにかく生き続ける。もう一つはヒナゲシとか一年生植物のように花を咲かせたら役割を終わってしまう。命は2つの性格があるが、世の中を変えていくことにコケのようなやり方もあるしヒナゲシのようなやり方もあった。
両方とも重要だと思うが、学生運動が厳しくなっていくと僕らも運動を続けていくときにコケのように生きるのか、ヒナゲシのように花を咲かせるのか、頭の中で行きつ戻りつすることがあった。
彼女もそういうことを繰り返ししてきたんじゃないかな。同級生として立命館で一番困難な時代に一生懸命考えて、どうして生きていったらいいのかなと思った。その意味で彼女の人生をもう一度振り返ることができて良かったなと思う。
そういう感性の一つの天才詩人だった。それは短いけれど生き抜いたと褒めてあげたい。
講座への登壇は天野さんにとって意外だった。
天野:50年前、1970年代までは立命館の学生のみんなから話を聴きたいので「来てくれ」って呼んでくれた。ありがたかったけど、僕は大学のキャンパスに寄り付かなかった。「見つかって何かされたらかなわないからダメ」「ボディガードを付けてくれたら行くけど」って(笑)。
それからも高野悦子のことで時々思い出したように訪ねて来る人があった。新聞記者が記事を書いたりするために。
でも、まさかこんな講座に出るとは思わなかった。私の登壇を立命館側が〝OK〟することは考えられなかった。元活動家ということで大学当局は〝敵視〟してたし、今でも知ってる人は知っていてなかなか難しい。初めは「僕はいいけど、企画が絶対通らないですよ」って言った。
普通は無理だけど、川島先生なので話が通った。川島先生が高野悦子さんのことで訪ねて来られたのがミラクルだった。
大学側も〝抵抗〟はあったんじゃないかと思うけど、昔と違って今の立命館は相当変わった気がする。いったい何のための闘いだったのか(笑)。私が出るのを大学の側も事実上認めてくれたことで、今回の講座の日はだから「歴史的和解の日」でもあるかな(笑)。
講座はキャンパスプラザ京都4階にある第2講義室で午前コースの回と午後コースの回の2度行われた。このうち午前コースには約150人が集まった。京都学講座の受講生のほとんどは一般の50代から70代で、京都を中心に関西そして東京や広島、福岡といった遠方からの人もいるという。
川島さんの「きょうは今からちょうど56年前の6月24日に鉄道自殺された高野悦子という人とその時代を話をしようと思っています」から始まった。「二十歳の原点」を読んだことがあると記憶している受講生は約3分の1。
天野さんは「もうまもなく78歳になりまして、まさか高野悦子のことを皆さんにお話しする機会があるとは全く夢にも思ってなくて、驚いている次第です」。
スライドを使って当時を振り返りながら歴史的な痕跡を再構成し、天野さんが自らの体験から生々しい現実を〝証言〟する形で進められ、最後に川島さんは「京都の昭和の大きなメルクマールになっている話になりました」と締めくくった。
受講生の中には当時の立命全共闘の関係者もいて、講座終了後に天野さんと当時の思い出話で盛り上がる場面もあった。
今回の企画を担当し、解説役として登壇した神戸情報大学院大学客員教授の川島智生さんが、講座にこぎ着けるまでの経過を明らかにした。
川島:今年度の京(みやこ)カレッジ・京都学講座のテーマが「あなたの知らない京都旅─昭和100年の物語─」。昭和100年の京都で一体何が大きかったのか、何が一番インパクトがあったのか。企画の委員の一人としていろいろ考えた時に、急に高野悦子「二十歳の原点」が浮かんできた。1971年に出た「二十歳の原点」は京都を舞台にした日記で、シリーズで300万部以上売れた戦後最大のベストセラーの一つでブームになった。
私は世代的には当時、1969年は小学生だったけど、本が出た1971年には中学生になっていて、周囲の人に連れられて読んで、それなりに感動と言うか、“こういう世界があるんだな”ということを知った。
それから半世紀以上、今も売れてるとはどんな本なのか。私は日本の近代建築史が専門分野で特に関係はないけど、以前に1960年代のことでフォーク歌手の杉田二郎さんと対談・コンサートを開いたり、作詞家の松山猛さんを呼んだりして、自らが10代前半だった1960年代や1970年代の若い人たちの息吹のことをいまだに深く興味を持っている。学生運動も延長線上で強い印象がある。それで今回は専門分野じゃないけどチャレンジしてみようと。
とにかく50年以上経てば、建築史の世界で言えば文化財になる。「二十歳の原点」が出てから54年で、もう完全に歴史。高野悦子が生きていたら今76歳なので、当然だが関係者が次々に亡くなってしまう。きちんと検証して、立命館大学や関西の全共闘運動のことを含めて世に残しておかないといけないと思った。
そこから始めて、いろいろ探す中で、当時の立命館大学で高野悦子も関わった全共闘運動の当事者、天野さんと2024年の夏に偶然に出会って認めてもらい、少し冷や冷やしたけど幸い12月に企画が通ったので開くことができた。
全共闘活動でキャンパスを追われた天野さんが、このような形で当時の事情を伝える場を持てる京都。長い歴史を持つ都市の懐の深さを感じた。
2025年6月3日、6月28日の取材を元に構成した。肩書等は当時のものを用いた。
本ホームページへのご意見・ご感想をお寄せください☞ご意見・ご感想・お問合せ