4月9日(水)から4月12日(土)まで、校庭では新入生向けのサークル勧誘が行われていた。


☞清心館
京都ホテルコーヒーパーラーは、京都市中京区河原町通御池上ル一之船入町の京都ホテル新々館(北館)2階にあった喫茶店である。


京都ホテル新々館(北館)は地下1階地上9階、1970年大阪万国博を控えた増改築で、総工費16億円をかけ1969年3月1日に完成した(写真下の左奥のビル)。外国からの団体旅行者や、大規模な宴会需要の増加に対応するためだった。これにより全体で客室総数517室、収容約1,000人に大型化し、京都最大のホテルとなった。コーヒーとアイスクリームが売り物で、92席のコーヒーパーラーも同時オープンだった。
コーヒー330円はサービス料込み。


当時の京都ホテルの広告では「3月1日にオープンした新々館の入口は回転式の透明ガラスドア。はいると壁面のステンドグラスの窓から豊かな色彩が流れ込むロビー。その奥のラセン階段を上がるとコーヒーパーラー。可愛く、華やいだパーラーがある」と紹介されている。

京都ホテルは1994年に建物全体を一新し、2002年には京都ホテルオークラに、さらに2022年にはホテルオークラ京都に改称して営業している。

高石友也の『坊や大きくならないで』は、日本ビクター(現・JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)で1968年11月発売のシングル。当時370円。競作であるマイケルズ『坊や大きくならないで』(歌詞:浅川しげる)より先に発売されている。
ただ高石友也(1941-2024)のシングルは訳詞になっており、「とびかう鳥よ おまえは自由」のフレーズは出てこない。なお、当時売れたのはマイケルズのシングルの方。
☞1969年4月7日「〝とびかう鳥よ おまえは自由〟」
☞1969年4月15日「高石友也の「坊や大きくならないで」をステレオできく」
購入した可能性のあるレコード店として、京都市中京区河原町通三条下ル大黒町にあった十字屋河原町店が挙げられる。


梅沢さんと木村さんはワンゲル部で高野悦子と同学年にあたる3年生の女子。内山さんは4年生の女子。
☞ワンゲル部
☞仕事にいく途中会った・梅沢さん「知ってる人がいきなりですもの」
この時に盲腸手術で話題に上った、ワンゲル部で同学年の女子、(旧姓)木村さんが当時の思い出を語った。
木村:高野さんと初めて会ったのは、彼女がワンゲル部のPRスキーの合宿に来た時でした。彼女が入部する前、1回生の時に長野県小谷村でPRスキーの合宿があって、それに一緒に行きました。
自分はそれまでスキーの経験がなくて、ワンゲル部のこの時に初めてスキーに行ったんです。PRスキーは部員以外の一般の方を招く形でワンゲル部を知ってもらう機会にしていました。合宿では、部員で上手な方、3・4回生から講習を受けたと思います。
合宿でもちろん彼女と話をしたと思います。ワンゲル部員は一般の方が一緒になるだけでなく、スタッフとして一般の方を世話をしないといけないし、歓迎することになりますから。
ただ、そんなにしゃべってはいなかったでしょうね。PRスキーに申し込むのは一人じゃなくて、何か〝つながり〟があったと思います。高野さんに友達がいて「こんな人が一緒にいる」というのを聞いた覚えがあります。
それでPRスキーの時に来られた時に会った高野さんが、そのあとワンゲルに入部してきた時に喜びました、“入ったんだあ”って。当時のワンゲルには女子が少なかったので、ちょっとでも増えたのがうれしかったですね。PRスキーは私たちが2回生だった年からなくなりましたけど。
☞美山荘・わらび平スキー場
☞高野悦子のスキー道具(遺品)
新人合宿の広河原は2回生の時に行きました。新人合宿と言っても、2回生だけでかなりの数の部員がいました。バスで行ったんですが、広河原は奥の方ですごい山の中でした。テントを張ってキャンプをしました。
夏合宿は、高野さんとパーティが違っていて、集結地だけ一緒でした。自分のパーティは〝本部〟で、集結地の設営や準備をする役割でした。集結地でキャンプをしました。
合宿のパーティやパーワンで同じグループになったことはなかったですけど、学校でワンゲルの女子が出会うことはありました。
☞新人合宿
☞夏合宿
鶴清で開かれた追い出しコンパのことは記憶しています。あのような料亭というか料理旅館であまりやったことがなくて、「鶴清」の店名も何もかも初めての感じがしました。
そこで高野さんと会ったことも覚えています。彼女さんは誰かと何かすごい難しい話をしていました。お膳が並んでいる所で酔っ払っているのに、高野さんは先輩にいろんな質問をして議論をしていました。“難しいことを考えている人だな”と感じたことが忘れられません。
高野さんの眼鏡については、その追い出しコンパか、同じ頃に学校で会った時だと思いますが、彼女が度のない眼鏡を掛けていたのを見ました。眼鏡を掛けているのを初めて見た時は、目が悪いんだと思っていたんですよ。
☞追い出しコンパ記念写真(眼鏡の写真)
高野さんの葬儀には、ワンゲル部を代表してチーフリーダーの男子と2人で京都から栃木県まで行きました。葬儀はお堂のような所で行われていて、とてもショックだったので今でも残っています。
最初に読んだのは同人誌の『那須文学』でした。葬儀に参加したためでしょうか、送っていただきました。そこに「盲腸」と書いてあって自分のことだとわかりました。最初に目にした時はびっくりしました。『那須文学』から本になっていったと思います。
本が出た時は驚きました。“すごい真面目な方”と思っていましたが、あそこまで深く考えていて、繊細だったとは…、読んでいて驚きました。同じワンゲル部で私たちは、普通に…たわいない話をしていただけでしたから。(談)
☞高野悦子の墓
複雑骨折とされた、ワンゲル部で1学年上の女子、(旧姓)内山さんに話を聞いた。
内山:えっ、本の中に私が出てますって!まぁ…びっくりしました。「内山さんがスキーで複雑骨折」って書かれてるんですか? はい、しました。ウソじゃないです。スキーで複雑骨折しました。下手くそだったんです。登場してるのは全然気が付きませんでした。初めて知りました。
スキーへは連れていってもらいました。斜めに滑る時に、斜めと言っても普通はまっすぐですけど、私は横に滑る形になってしまいました。それまで昔の田舎だから親が竹を削って作ってくれた板で近くへちょっと滑りに行ったことはあったんですが、あの長いスキー板で本物の〝スキー場〟でしたことはなかったんです。行ったのはワンゲルの関係だったと思います。ワンゲルの方2人に付き添って送っていただき、申し訳ないと思いました。それで病院に行きました。
骨折したのは右足のひざと足首の間の骨のまっすぐな部分でした。ただまっすぐに固定しただけで…。ひざとか足首そのものだったら大変だったりするんですが、まっすぐな部分だから、「複雑」と言ってもそう大したことないです。
帰ってきて親に怒られました。複雑骨折も何も、親にしてみたら一生懸命勉強してると思っていたのに、スキーはしてるわ、骨は折ってるわ、です。ふだん親に怒られることはあまりなかったですけど、その時は怒られて当然でした。
そうそう、忘れてました!いやなことを思い出して、はぁ…変な〝登場〟ですね、ふふふ。みんな覚えてるのかしら。
入学当時はワンゲルなんて知らないのに、ただ「ハイキングとか自然に触れましょう」いう感じで新人の勧誘がありました。田舎育ちでしたから、“自然に触れるのはいいなあ”って思いました。「山登りしましょう」と言われたら“ちょっと危ない”かもしれないですけど、「自然に触れましょう」ですから。1年生の新人にチラシを配って勧誘するでしょう。誰かにチラシを配っていただいたのか、それで入部しました。1年目は何にもわからなくてハイキングくらいと思ってましたし、みんなそんなものじゃなかったでしょうか。
高野さんは2年生で入ってきて、私はその時3年生の初めでした。ちょうど1年くらい一緒でしたねえ。と言っても、ふだん会って顔を見るのは総会とか何回かだけでした。おとなしくて小柄で、きれいなかわいらしい子でした。それで一緒と言えば、一つは京都・広河原でしたか、新人合宿に来たと思います。
新人合宿のキャンプ地での朝食時に内山さんと高野悦子が隣りどうしで腰を下ろしていた写真が残っている。
曽爾高原に行ったのは覚えてます。部活と言っても誰かがリーダーになって個別にあそこ行こうとかここ行こうとかいう「パーワン」ですね。“高原に行きたいなあ”って最初に1年生の時、それに「曽爾高原に行きたい人集まれ」って3年生の初めころと合わせて2回、曽爾高原に行った記憶があります。
「高原」の名前で思っていたのと少し違って、結構しんどかったです。“高原ってこんなにしんどいものか”と思いました。距離が長いんですね。山と言えば山でしょうけど、山だからしんどいのではなくて、平坦な所でも歩くのがしんどいくらい距離が長かったです。そんな記憶が今よみがえってきました。
でもあとは、私が2年生の半ばからあまり活動をしなかったこともあったので…。3年生も一度活動したくらいで後半からもう活動をしませんでしたし、4年生は部に名前を置いてただけで、山に行った記憶が全然ないんです。みんなもそんなに行きませんし全然顔を合わせませんでした。
私の印象はたぶんスキーで骨折したことだと思います。ほかに印象は…。
☞曽爾高原パーワン
高野さんの『二十歳の原点』は読みました。“名前が同じだけど…”と思いながらページをめくったら写真で“あら、彼女”って買った気がします。本は色あせても家の奥の方あるかもしれません。整理するかどうかいけない年になったと思ってはいますが。
彼女は本の中でこんなふうに書いていますが、あんまり〝物の表現が上手でない〟といいますか〝言えない〟といいますか…、物を表現するのにあまり口に出すことはなくて、でも“何か言いたい”、“心の奥から言いたい”ような…。今の私のようにしゃべったり、若い人でも心の内をすぐ話したり、無口気味の人でもそれなりに表に出ますが、彼女はパッパッと表現してベラベラしゃべる子ではありませんでした。
それが結構、本に書かれているのを読んで驚きました。“えっ、彼女はこんなことを書くほど心にいっぱい思いや考え方を持っていたのか”と。確かに当時、彼女を見たら、〝いっぱい持っていたか〟まではわかりませんでしたが、そういう心はありましたね。それを文章で書く、書ける…さっと出てくるということは、彼女は“話したらいけない”と思っていたのでしょうか。
亡くなってから出た遺稿になるんですか。でもどうして亡くなったか…自殺するような感じの人には見えませんでした。彼女が学生運動をしていたって思えなかったです。
もう何十年も昔ですね。私は1970年に大学を卒業しましたけど、50年以上前のことです。年が経って中にはポツポツ亡くなっていてもおかしくないですが、自分はこうやって生きてるものですから、みんなも元気でいるんだと思ってます。
高野さんと同じ1学年下の木村さんとは今も年賀状のやり取りをしています。私が「孫がいるものでもう忙しくって」と書くでしょう、木村さんも「孫に追われて全然どこも行かれません、いつ終わるんでしょうね」って。もうそんな感じです。(談)
☞ワンゲル女子新年会「何のために山に」
歩きながらたばこを吸ったのは京都市中京区堀川通二条上ル二条城の二条城東側の歩道。帰宅ルートは最短距離ではないが、女子が深夜で徒歩という状況から、大通りである堀川通と丸太町通とみられる。

☞1969年4月6日「歩道の靴音をきき、車のライトをみながら鼻歌をうたって帰る」
4月「11日から全学部で新入生を対象にしたオリエンテーションが開始された。
全共闘はこれに対し「全共闘の政治的孤立化─闘争の収拾、立命館体制の再編を共通利害に、大学当局と学友会の一体となった闘争破壊策動である」として連日オリエンテーションの粉砕闘争を展開してい」(『立命館学園新聞昭和44年4月14日』(立命館大学新聞社、1969年))た。
川越宅-(丸太町通)-寺町丸太町-(寺町通)-立命館大学広小路キャンパスとみられる。
ただし寺町通の代わりに河原町通、烏丸通を利用した可能性もある。
バイト先に急いだのは、シアンクレール─(河原町通)─(丸太町通)─(油小路通)─京都国際ホテルとみられる。

☞1969年3月11日「The Sound of Feelingなどは」
☞1969年3月26日
那須文学社版の記述。以下、「新聞、このごろ新聞をよんでいないんじゃないか」に続く。
ただしこの記述が、4月13日のことかどうかは不明である。
☞1969年4月9日「「第二の性」を読んだら…」
☞1969年6月22日「「第二の性」は奥深く並んでいるけれど、」
那須文学社版の記述。以下、「私は自分というものがわからない」に続く。
「自己は、「他人の目差しによって凝縮させられる」のである」(「用語解説」ボーヴォワール著生島遼一訳『第二の性Ⅰ』新潮文庫(新潮社、1959年))というのが実存主義の考え方だった。
京都大学の1969年度入学式は、4月11日(金)午前、本部時計台の2階大ホールで行われた。
「全共闘の学生が同9時すぎから会場の演壇を占拠したため、混乱。奥田総長は会場内で開会をマイクで告げ、「このような状態なので告辞文は送ります。おめでとう」と約1分間のべただけで閉会を宣言し、かたちだけの入学式となった」(「式場占拠や放火騒ぎ─混乱続く大学入学式」『朝日新聞(大阪本社)1969年4月11日(夕刊)』(朝日新聞社、1969年))。「反日共系学生たちが総長の方へ移動しかけたため、総長は逃げるように式場を出た。このため予定の入学生代表の宣誓、学歌斉唱は取りやめとなった」(「京大入学式、わずか10秒」『京都新聞昭和44年4月11日』(京都新聞社、1969年))。
記述に「!」(感嘆符)を多用する用法は、当時の現代詩にあったものである。
☞1969年3月26日「ゆきずり さすらい」(那須文学社版の記述)
Bonne nuit!は、フランス語で「おやすみなさい」の意味である。「夜」を意味するnuitは女性名詞なので、「良い」を意味するBonがBonneに変化するのが正しい表記である。